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第4  1号生徒時代


 昭和16年11月15日、第70期が卒業して我々は憧れの最上級生徒の1号となる。翌16日分隊編成換えで54分隊となる。

 江田島島生活の根源たる自治制度である訓育上の編成「部」は第1部から第6部までで、各部は9個分隊である。従って、この時の分隊総数は54個分隊となり、赤練瓦生徒館の裏に増設された第3生徒館が使用された。
 
 12月1日、第73期(3号生徒)が入校して生徒館の全権を握る1号となる。1号は<聯合艦隊司令長官に次ぐ地位>といわれていた。

1週間後の12月8日に第2次世界大戦が勃発した。


 1号生徒となった我々は、開戦で意気軒昂となりハリキリ過ぎ、鉄拳制裁禁止令が出て総員1の外出禁止を受けたことを記憶している。日本全国はすべて戦時体制に突入したが、江田島は当局の方針で前動続行、平常どおりの訓練、勉学を続けることが示され、我々は丸々1年間1号としての特権を行使した。

2 翌年の昭和17年5月28日、594名が第4学年に進級
  
 養学である普通学、専門学の軍事学を習得するための編成「班」は、分隊編成と離れ、各学年ごとに第1班から第12班までに別れ実施され、上級生からの制約下から開放されたが教務はきつかった。従って、落伍者が出て行った。
 
 この間の生徒生活はこの年の4から8月にかけてに作成された真継不二夫撮影の海軍報道写真集『海軍兵学校』にその全貌を見ることができる。
 
 真継氏は「環境は人を作るというが、私は兵学校へ来て、男の男らしい美しさを見た」と生徒から受けたありのままの印象をこのように書きしるしている。
 
また、我々のOB会が発行した『海軍兵学校出身者(生)名簿』によると、「永遠に海軍兵学校生徒の顔と姿を残すことになったのは71期、72期、73期の3クラスであった。そして、この時代の海軍兵学校の生活を最もよく伝えた記録である」とも記している。
 
 旧海軍が残した貴重な記録であり、現在氏の娘さんがその意志を継承して復刻されているが、ここでは氏の初版の傑作集を娘さんのご了解をえて使用させてもらい、あわせてクラスのアルバム『海軍兵学校第71期』に掲載の写真を一部使用する。改めて、故人の偉大さを感じ、これこそ「江田島健児どもの夢の跡」そのものである。


真継不二男写真集『海軍兵学校』にみる往時の回顧



初版本表紙
昭和18年7月発行
 金8円、5800部
 目次

  ・海軍兵学校精神   兵学校長・草鹿任一 
 ・海軍兵学校  大本営報道部長平出英夫 
 ・海軍兵学校の生徒生活   兵学校教官・田邉清治
 ・岩佐中佐と広尾大尉の江田島時代   学校教官・大野 格      
 ・横山正治少佐を偲ぶ    兵学校教官・赤尾俊二
 ・写真解説  撮影者・真継不二夫
 ・写真   真継不二夫 
 ・海軍兵学校を撮る  真継不二夫
 ・兵学校生活の思ひ出   海軍少佐・日比野寛三


生徒隊の一日は起床ラッパの放送で始まる

第1生徒館


第1生徒館の全景

  
第2生徒館(通称赤レンガ)

教育参考館と大講堂

・左の写真
 正面玄関から赤絨毯をひいた階段を登ると正面が東郷元帥遺髪室、当時はネルソンの遺髪もあったが終戦後所在不明のままである。70期の
宮崎冨哉氏(元検事)が捜索を行っている。

・右の写真
大講堂 入校式、卒業式、校長訓示等が行われる
 

乗艦・航空実習

艦位測定
安達 裕
(航空で戦死)

機銃射撃
子爵・浜尾誠(大淀で戦死)
今上天皇元侍従の兄



航海実習

  

水雷艇実習





初練機(岩国航空隊)
 
  操縦席で
速水経康


後藤甲子夫(戦死)と
速水経康


夜間天測実習


ウイークエンド(土曜日)



江田島名物・棒倒


     軍歌演習



慣海性を養う湾内帆走巡航編者の所属した43分隊の2号の湯浅、
吉田、今若、川西が見える。食糧、菓子、コンロなどを搭載の自炊。同期生水入らずの最大の楽しみ
 (
佐藤清夫撮影)


  日曜・この日だけが外出できる。学校で作ってくれる竹の皮に包んだ弁当を持って、民間借り上げの倶楽部でスキヤキを奮発し、古鷹山に登り、津久茂寺まで足を延ばし。小用峠を越え港の桟橋付近から呉の町を望見し故郷を思う。

校門脇の名札を返し

外出・倶楽部に

 倶楽部での憩(前出)

当時の小用峠
 
 白砂青松の構内、兵学校の正門は江内に臨む表桟橋、腰の短剣は娘さんの憧れか


 表桟橋付近を散策


仮設プール(夏季)

平戸から廃船に


生徒のシンボル腰の短剣


             隊努遂行のための係り生徒
 各分隊には、伍長、伍長補のほかに、1号生徒には次のような係りがあった。ご愛嬌!!(2号は補佐、3号は補佐付と称した)

 被服月渡品係、校庭係、剣道係、柔道係、銃剣術係. 体操体技係、相撲係、 遊泳係、馬術係、弥山係、弓道係、短艇係、通信係、小銃係、電機係、軍歌係、 図書係 校庭係被服月渡品係


3 昭和17年11月14日卒業・海軍少尉候補生に任命される(581名)

 10月16日、新校長海軍中将井上成美(兵37期)が発令、第4艦隊司令長官(トラック島)からの着任は我々の卒業式数日前であった。従って、この校長の偉大さに接し、ご薫陶を受けることがなかった。
 
 その昔は在校期間が概ね4ヵ年間であったが、戦争必至の情勢で68期は4ヵ月間繰り上げられて卒業した。69期から満3か年間に短縮されており、我々も17年11月14日、581名が満3年間の海軍兵学校全教程を卒業し、高松宮の臨席をいただいた卒業式の行事を終了して、少尉候補生を命ぜられた。海軍生徒の襟章の錨マークを海軍少尉候補生の階級章にかえて、準備されてあっ制服に着替え、軍刀をもって出陣の位置に付く。

 江田内に入港した戦艦「伊勢」、「日向」に乗艦して内海西部の柱島泊地に向かい、戦艦6隻(「伊勢」「日向」のほかに旗艦「長門」、新造艦「武蔵」、「扶桑」と「山城」) による前期(第1期)の海軍少尉候補生実務練習2ヵ月間)が開始される。

 我々の卒業式を参観した推理作家江戸川乱歩氏の参観記「島隠れゆく艨艟)ほか数編が国会図書館の古い資料、個人的に保有したい古い切り抜きにあった。。それらの文章は当時の光景を更なる記憶として期友の脳裏に刻み付けるであろう。
 これ等の資料は、この項に続く「有名作家七氏の兵学校訪問記」からリンク出来る。

 

勇壮な呉軍楽隊の軍艦マーチに送られて、大講堂前から表桟橋(兵学校の正門)にかけて見送る家族、教官、在校生、学校職員の前を進む新海軍少尉候補生たちである。


 
卒業記念写真

 @ 581名が一同に会して撮影された集合写真は、このほかに一枚ある筈である。上京し、昭和天皇に拝謁した後、芝の水交社での嶋田海相、永野軍令部総長招待の出陣式での兵科、機関科、主計科の各候補生全員の集合写真であるが、全員がそのまま戦地に赴いたので、配布されなかった。

 
 A水交社とは、旧海軍将校の親睦団体、水交とは「君子の交わりは淡きこと水の如し」の古事によったという。芝水交社は現在の東京タワーの隣にあったが、終戦の混乱で無償接収され裁判沙汰になったが敗訴した。現在東郷神社の敷地内にある「水交会」があとを継いでいる。

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