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第2、 4号生徒時代 (第1学年生)

 


 昭和14(1939)年12月1日入校、601名が海軍兵学校生徒(第71期)を命ぜられ、即日入校教育が開始された。校長海軍中将新見政一は我々よりわずか1ヵ月早い着任であったことは知らなかった。
 
 総員が生徒隊(海軍大佐朝倉豊次)に編入され、期主任指導官に海軍中佐続木禎弌(兵46期)が任命された。使用生徒館はこの年の4月に新設されたばかりで、明治創設時の生徒館、所謂赤煉瓦生徒館は改修工事中で使用していなかった。

生徒隊監事

朝倉豊次大佐(44期)〜戦後・富山県黒部市長を歴任〜

松原 博大佐(45期)






入校当時の期指導官(武官と文官)
・前列、左から
吉野少佐、東田教授(英語)、続木中佐間宮教授(化学)、
山口少佐、新福教授(数学)

・後列、左から
 宮崎大尉、澄田教授(数学)、 遠山造船大尉、
松田教授(数学)
 小西少佐、竹村教授(数学)、 森岡大尉

 
 海軍生徒は、身分的に海軍兵曹長の下、下士官の上の待遇という破格システムであったが、新入生の我々は「4号」と呼びすてされる最下級生であり、生徒隊内、校内的には人格を無視されたような気がするし、教官の子弟を教育する構内の従道小学校(西郷従道の創立)のこ生意気な悪がきどもから「4号、4号」と小馬鹿にされた。

 しかし、天竜川沿いの片田舎の呉服商の子せがれであった
管理者(佐藤清夫)も教官、教員からは「佐藤生徒」と呼ばれた。勿論、海軍兵籍に編入された。

 直木賞作家であった豊田譲氏は、我々の1号生徒で、その作品『4号生徒』のモチーフは我々で、著者はまさに最強度なネイモウな「鬼の1号生徒」であった。


1、4号の悲哀
 
 生徒館生活で新入生として生活はすべてきついものばかりで、鉄建制裁は日常茶飯事であったが、早めに自習室を出た1号生徒の青鬼達は階段の上で4号が駆け上がって来るのをてぐすね曳いてまち構えている

兵学校では階段の登り方は2段(降りは一段)の駆け足であった。
青鬼は良くても悪くても「待て、やり直し」

 
また、1階まで駆け下りて、やり直す。1回ですめばよい、2回ぐらいは当たり前 特に3階に寝室が在る場合は、それでパスして3階の寝室に向かう。そこでも関門が待っている


毎週土曜日の午後行われる自習室の大掃除(右)である

大きなソウフと呼ばれた雑巾を両手に持ち、床を磨くのである

回われ!、回われ!

1号がしごく

 これらの写真は涙なくしては見られない。然し、写真そのものは71期が1号のとき撮影されたものであるので、我々クラスは加害者の立場にあり被害者は73期生であった。


2、天下の秀才も

 入校時の中学校での成績は、東京等の都会の有名校を除き殆どが十番以内、特に地方の中学校では首席、次席が極めて多い。その彼らも分隊内では、実は席の順番が身長順であったのであるが、中には俺は順番が2番目だからそうと名成績であったとかいそうしているものもあった。2学年(3号生徒)になって成績順に並べられ、それまでは誰もが皆天下の秀才であるとうぬぼれていた(家族は今でも)が、この現実に当面し身の程を実感した。

 
「ハンモックナンバー」というものがあることをこの時期では殆どの生徒は知らない。この兵学校卒業の成績が明治海軍当時からの
海軍士官の指揮権順位であったこの「ハンモックナンバー」の人事行政が帝国海軍を滅亡に導いたといわれていた。

3、貴様らの半分は入いれなかった
 
入校時の新入者員数は601名、兵学校の歴史始まって以来のことで、入校直後に続木禎弌(ていいち)主任指導官から「六百一心たれ」と訓示された(前出)。
 
 1号生徒からは「貴様らの半分は普通なら入れなかった」と冗談話に云われ、そうかなと考えたことを皆が覚えている。しかし、今日的には。わがクラス(期)から始まった増員が無かったらあの大戦争は戦えなかった。それでも足りず学徒動員を余儀なくされ、予備学生1万余り、予科練10万余り、実に前途有為な若者の犠牲の上に今日の繁栄があることを忘れてはならない。

4、鬼の1号生徒

 背が高かった者は1号から殴られる時も、一番強く気合を入れて殴られたようだ。兵学校の最獰猛クラスの62期と65期の血(?)をひく継承者であった68期(我々の1号生徒)の柔道?段の豊田穣の著書『四号生徒』がある。
 
 わがクラスの3号は73期であるが、その3号が1号生徒となったときには在校生徒が大増員となり、分校ができ、1号生徒1人で対番3号4人を担当したという。しかも繰りあげ卒業のために在校4ヵ月の間に兵学校の伝統を受けつがなければならなかった。このクラスが各期の中で最も獰猛(ネーモー)クラスと呼ばれ、厳しい指導を下級生に行った理由はここにあったと『海軍兵学校出身者(生徒)名簿』の別冊にあるが、71期が62期→65期68期から受け継ぎ、開戦1週間前に入校した73期に引き継いだ伝統(?)の賜物であったろうか。


5、山椒は小粒でも

 戦後医師となった鹿児島の故神園望は、「体が小さくやっと海兵の合格圏に入れたけど体力がなく激しい訓練に難儀し、特にボート漕ぎは手が小さく…」と、身長最低基準(152糎)近くで合格したが庭に鉄棒を作って伸ばす程の苦心をしたという。
 
 最年少者の加藤正一は小さい組で大正13年4月1日生れ(受験の年齢制限は大正9年12月2日から13年12月1日までであった)で、4年終了の最後の生まれでまだ成長の真最中であったろうが、3番で恩賜短剣を拝受する秀才であった。まさに山椒は小粒でもの代表でであったが、惜いかな台湾沖航空戦で還らなかった。
 
 因みに、最年長者は大正10年2月6日生まれの2浪組み、クラスで身長が一番高かった渡辺清規は候補生で駆逐艦に配乗されたが、頭が天井につかえて困り、飛行学生を希望したと回想する。

 小さいことで得することはなかったが、瀬戸内海での2ヵ月間の少尉候補生実務実習を終了後、特別列車で上京して今は亡き
昭和天皇に拝謁を賜わった。その時の整列は背の小さい順であったので管理人(佐藤清夫)は身長160糎、このときは幸いにも前から3、4番目に位置していたので陛下の入御から玉座につき拝謁を終了する間の細部を印象深く記憶している。
 
 そして宮中三殿を拝し、始めて味わった神酒の美味しかったことは今でも喉の奥に残っている。戦局急変の最前線に初陣する若者に対し、何かおっしゃりたいようなご様子であったと今でも一人思っている。
 父の服喪中であった檜垣保雄は宮内庁の拝謁まかりならずで、その時の無念さが今でも消えないという。



6、青マーク(受診中で軽作業中のものをこう呼んだ。常習犯もあった)


70期で入校し、病気で1年遅れて我々と一緒になった人達には、立派な体格の頑健そうな人達が多かった。兵学校という処は面白い処で、体の弱そうな生徒は「青マーク」をつけて病院通いが多い割りに、大病をしないのか落伍せずについてゆくが、頑健そのものの体格の生徒は自分の体力を過信し無理を通すのか、結果的には肋膜炎を煩い1年遅れたり、退学したりした例が多かったように思う。

 このことは卒業後、戦陣の蔭に倒れ、身体を壊した期友たちにも言える言葉で、生徒の時は青マークがちであった者が、戦後、医師となったり、また、医療の進歩、食料の充実により健康を回復し各界で活躍している。
 
 清水文郎君によると、70期生徒で4号時に引き入れしたものが多いのは12月に入校した最初のクラスで、しかも厳冬訓練が続いたためであったと聞く。