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復員後の再発病によリ死去
 新谷隆好  森  和夫 三宅春彦

 

終戦後復月し戦痛死したのは新谷隆好君と森和夫君の二名であった。 

海軍大尉 新谷隆好
 伊勢 常盤 40期飛学生 横空 攻三 復員
 二一年三月二八日戦病死 二三オ
 県立呉第二中学校 
父小助 母みち
 第三〇分隊の銃剣術係


海軍大尉 森 和夫
 武蔵 鳥海 夕張 横鎮守府附 鹿島 榛名 呉鎮守府附(入院) (復員)
 二二年二月二日 病死
 県立佐賀中学校
父袈裟一 母ムメ(在ブラジル)
 第三四分隊の校庭係


海軍大尉 三宅春彦
 山城 二〇四空附 沢風 蔦 呉鎮守府附 
 二二年三月十五日戦病死 二六才
 大連第一中学校
父素 母 ヒサ
 第四十二分隊の馬術係


 
新谷隆好君は、攻撃第五飛行隊分隊長で終戦を迎え故郷の異に復月した。戦争中発病したことのあった胸の病気が再発し、戦後の混乱期で食糧も不足の時代であり、家族の温い看護にもかかわらず、特効医薬品もまだ入らなく、復月の翌年三月二八日不帰の客となった。戦争中の発病であり戟病死と認定されたのである。

 
森和夫君は、期会名簿に「病死」となっているが、厚生省援護局の戦没者名簿では「戦病死」と認定されている。軍艦榛名に乗艦中の二〇年五月二〇日発病、.直ちに呉病院に入院し、それまでの戦陣の無理で「公務羅病、左胸膜炎」と診断された。戦局は日に日に悪化し八月遂に終戦を迎、え、同君が何日退院復月したか不明であるが、自宅に帰り療養していた。新谷君同様に終戦直後のことであり、十分な療養も出来なかったであろう、二二年二月二日午前一時死去した。
 

 
三宅春彦大尉は、駆逐艦蔦の水雷長旨んて勤務中、二十年五月発病、後任者の着任を待てず呉海軍病院に入院した。病名は腸結核であった。その後、別府海軍病院に移り療養専念中、終戦を迎えた。

 一時家族の元に帰っていたが、病状が進み再入院し、結核がまだ不治の病であった時代で、戦後の物質不足もあり、ニ十年三月十五日、不帰の人となった。戦中の発病であり、戦病死と認定されたが、五十六年まで御遺族との連絡がとれず、長い間淋しい思いを掛けた。」