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台湾沖航空戦・台湾からの日施哨戒
(攻撃第七〇八飛行隊) 平岡一万中尉

海軍大尉 平岡一万の戦歴
 
長門 熊野 40期飛学生 七六二空 攻七〇八
一九年九月二六日戦死 二〇オ
 府立今宮中学校大阪)
父卓馬 母ヱイ
 第一九分隊の短艇係

  (戦況)
  
 合艦隊司令部は、巡洋艦大淀に将旗を掲げ、木更津沖にあったが、一九年九月二九日、横浜日吉にある慶応大学分校構内に移転した。

 豊田副武司令長官は、この機会に此島方面を視察して、「捷」号作戦準備の状況を確認するため、さ月二日、特別機で羽田飛行場を出発し、途中鹿屋、マニラ(七日)を視察して九日新竹に到着している。

 長官は、この地で風邪をひき、予定が二日遅れたため、離島しようとした一〇日に沖縄に敵機動部隊に奇襲されて帰京できなくなり、やむを得ず台湾から指揮することになった。このため爾後の作戦は、日吉の司令部と新竹の長官から時に二つの命令が出るという混乱があった。
 
 それまでの敵信傍受等から次の作戦正面は比島と判断されていたので、台湾、比島方面に展開した航空部隊は、特に哨戒を厳重とし、情報の収集に努めた。
        
 攻七〇八(攻撃第七〇八飛行隊)は、陸上攻撃機の飛行隊であり、本部は鹿屋にあって中攻六〇機を保有し、新竹の派遣隊に三機を配していた。この本隊は来るべき航空決戦の特別編成部陳であるT攻撃部隊芸主力兵力であり、多くの期友搭乗員が特訓を受けていた。

 平岡一万中尉の属する新竹部隊は、台湾東方海面に対する日砲哨戒がその主任務であった。平岡中尉は、九月一六日の午前七時少し前に新竹基地を発進した。

 一一時一一分に、「600マイル進出ノ予定、異常ナシ、先端到着時間一一一二、宜蘭ニ向ウ」の報告をしているがこの報告を最後に基地との通信が途絶して、行方不明となった。平岡中尉は、学期飛行学生出身であり、この期の最初の戦死者である。

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