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フィリピン沖海戦・基地航空部隊の攻撃

(戦関第三一行隊)  大畠俊雄    (戦闘第三一三飛行隊) 土井邦博

(戦闘第三〇八飛行隊) 松井 康  (攻撃第 五飛行隊) 信田秀夫

(攻撃第一〇二飛行隊) 佐野礼司  (第六三四航空隊) 斉藤松起


海軍大尉 大畠敏雄
 
長門 長良 始期飛学生
一九年一〇月二四日戦死 二二才
県立水戸中学校
父三代次 母くら
第五三分隊の銃剣術係 弓道係



a海軍大尉 土井邦博
 
長門 大淀 40期飛学生 二二一空 戦三一三
 一九年一〇月二四日戦死 二二オ
 県立呉第一中学校 
父政一 母菅野
 第三二分隊の短艇係



海軍大尉 松井 康
 
長門 39期飛学生 厚木空 六二航城附 戦四〇七、 戦三〇八
 一九年一〇月二四日戦死  二三オ
 県立諏訪中学校(長野) 父健 母ウタ
 第三〇分隊の伍長補 被服月渡品係



海軍大尉 信田秀夫
 
 武蔵 39期飛学生 五〇二空 事佐空 攻五
  一九年一〇月二四日戦死(公報二三日) 二二オ
  大阪・大倉商業学校 
父茂三郎  母修子
  第五分隊の伍長補 短艇係 相撲係



海軍大尉 佐野礼司

 日向 鈴谷 攻一〇二
 一九年一〇月二四日戦死 二一オ八月
 道庁立旭川中学校父幸太郎  母カシ
 第四九分隊の小銃係 倶楽部係
    


海軍大尉 斉藤松紀
 
長門 神通 40期飛学生 三四空
 一九年一〇月二四日戦死 二一オ八月
 県立富山中学校 
父松二 母シサ
 第五三分隊の短艇係 浦山係


  (戦況)

 第一攻撃集団は、二四日払暁に発進した月光(夜戦)、銀河、陸攻よりなる索敵隊からの敵発見報告を待ちきれず、午前六時半クラークフィールド基地群の各飛行場から発進していった。
 
 先発の索敵機が散発見電を打電していたころ、時刻は八時三〇分過ぎであるが、小林少佐の制空隊零戦二六機 はマニラの東方一五〇浬において、そして鴛渕大尉の掩護隊零戦五一機はポリロ島の東方八〇浬で、それぞれ敵投した。

 前日の第一次攻撃に続いて、この日も敵空母を発見することなくて失敗に終った。この作戦に参加した期友は小林隊の小隊長として
大畠敏雄中尉、どちらの隊か不明であるが、土井邦博と松井康の両中尉があった。彼らは、七時一五分にマバラカット飛行場を出発していったが、空中戦で被弾自爆したのであろう、三人とも行方不明となっている。
 
この日の爆撃隊の主力であった江間少佐の第三爆撃隊の九九艦爆三六機の中には第五中隊の小隊長として土屋和夫中尉も参加していた。この陳も敵戦闘機の阻止を受け、制圧隊、掩護隊と離れ離れに行動していたため、多くの犠牲を出し、攻撃を断念引揚げたが土屋中尉はこの時は無事であった。
 
 攻五の大渕大尉の指揮する聾星艦爆隊一二機は、単機による奇襲攻撃をねらって主隊とは別に行動し、午前七時ごろから単機ごとにマバラカット飛行場を発進した。目標はマニラの七〇度一四〇浬附近の空母群であった。
 
 信田秀夫中尉は、この隊の第二小隊長として参加した。また、二三日には個有の隊で出撃した攻一〇二の佐野礼司中尉がこの日はこの隊の偵察月として参加したと推定される。
 
 信田秀夫中尉は、後席久保政義(階級不詳)と共に一三日〜一六日の攻撃に連続参加し、二三日比島に進出したと「攻五戦闘詳報」に記録されている。
 
 この攻撃隊は、敵空母に直撃弾一発を命中させ、巡洋艦一隻を撃破したと報告されたが、信田中尉と佐野中尉を含む五機が未帰還となった。

 
米モリソン戦史の伝えるこの攻撃隊が空母プリンストンに致命傷を与えた記事は以下のとおりである。
                    
                          ※ ※ ※

 第一次攻撃隊の主力がシャーマン隊の戦闘機により撃じょうされた直後に、ひそかに一機の日本機が空母プリンストンの上空に近接していた。ちょうど遊撃戦闘機が着艦しっつあった午前九時三八分、雲の上で旋回しながら機をねらっていた単機のジュディ(彗星の米軍呼称名)が雲の隙間から突如降下してきて、二五〇放爆弾を悪魔のような熟練さで投下した。その直後、同機は撃墜されたが、その投弾はプリンストンの飛行甲板中部に命中した。
 この被弾は、一見軽微のように見えたが、火災は弾庫に引火し、大爆発を起し午後六時味方巡洋艦の魚雷で処分した。その時同艦の艦尾に近づいていた軽巡バーシンガムを巻き添えにし、多数の乗員を死傷させた。
    
                          ※ ※ ※

 この一機は、いのであるが、五機の未帰還機のうちの一機に間違いなだれの機であるかははっきりしていない。
この飛行隊におった時山武中尉はこの日出撃予定であったが、エンジン故障で発進できなかった。

 
佐野礼司中尉の最期については、関係戦関詳報が現存しないので、詳しいことは不明であるが、この隊に参加したと推定される根拠は次のとおりである。
 佐野中尉は、二三日の江間少佐指揮の九九艦爆取・の第二中隊第二小隊長として、藤本中尉、斉藤中尉などと共に出撃しているが、二四日の江間隊の攻撃参加機が前日に比し二機少なく三六機であり、佐野中尉は参加していない。愛機の故障で出撃できなかったであろうと、戦史室の吉松正博(編さん官)は推測する。
 佐野中尉が九九艦爆の偵察員であったので、何らかの都合で偵察員欠となった攻五の聾星艦爆に補充のため特別搭乗して出撃したものとみられている。.このようなことは混戟の当時においては、しばしばあり得たことであったという。
 二四日キャビテ水上基地を発進した特第二攻撃隊の水爆「瑞雲」六機が敵空母二隻を基幹とする第一目標の攻撃に向い、その一機が目標を捕捉して一隻に爆弾を投じたと報じた。

 六三四空の
斉藤松紀及び宮本平治郎両中尉は、第四航空戦隊の空母戦艦伊勢、日向に配居きれていた「瑞雲」の搭乗員せあったが、台湾沖航空戦の勃発以来、母艦を降りて陸上基地から作戦し、この時期台湾の東港に進出している。そして特第二爆撃隊に編入されていたらしい、

 鈴木(石坂)資料によると、
斉藤中尉の最期は、爽東港より比島に進出の途次、カロルス町の上空で敵機と遭遇、交戦に入り、一一時三〇分自爆戦死》となっている。集団か、単独の進出かこの資料には明らかでないが、前出のキヤビテ水上基地に到着後は、敵機動部隊攻撃に参加する予定であっただろう。最期の地となった 「カロルス町」の所在を地図により調査したが、つまびらかでない。
ルソン中部西岸のリンガエン附近にそれに近い町名「セントカロルス」 という街があるが確認していない。
 
 宮本平治郎中尉もその後比島に進出し、タクロバン、サンホセ沖の敵攻略部隊爆撃に参加後、敵のルソン上陸で二〇年一月一三日台湾に引揚げていた。その彼も後述するように六月二八日沖縄攻撃に参加未帰還となってしまうのである。

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