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九州西方の対潜作戦

(第九五一航空隊)九五一空 山下 豊

海軍少佐 山下 豊
 
扶桑 39期飛学生 佐世保空 九五一空
 一九年一二月三〇日戦死 二三オ七月
 県立福井中学校 父仁三郎 母(死亡)
 第二三分隊の小銭係

  (戦況)
 ルソン島に敵軍を迎えた以後、航空部隊の作戦根拠地は台湾に移っていった。台湾に撤退した一航艦司令部が次期作戦の予想地域を沖縄と判断して兵力の再建に努め、とりあえず台湾に後退した兵力を二月五日附で新編の第一三二、三一三、二〇五、七六五各航空隊に収容した。

 これらの航空隊もその後戦況が沖純に移るにつれて、台湾北部の宜蘭地区に、次いで一部は石垣島、宮古島にと後退していった。
 
敵の迫撃は急であり、わが再建に時を与えず、機動部隊に加えて支那奥地からのB29の攻撃もようやく盛んになってきた。一月一八日台湾南部にあった零戦と彗星を主体とする台湾最初の神風特攻隊が編成され、新高隊と命名された。
 
 一九年一二月下旬の二週間にわたり「S」作戦と呼称する九州南西及び五島西方海面における大がかりな敵潜水艦撃滅作戦が佐世保鎮守府の水上艦艇と航空機、佐伯空の哨戒機、試製東海及び呉空の観測機を動員して行なわれた。

 一二月三〇日朝、対潜哨戒中の水上艦艇が五島列島西方の白瀬灯台の二六五度六〇浬に敵潜らしいものを発見報告してきたので、九五一空の山下豊大尉は零式水偵に搭乗し僚機とともに佐世保水上基地を発進して現場に向った。
 
 所在の艦艇と協力して掃討を開始し、午後二時過ぎ空水協同攻撃により攻撃地点に大気泡が上ったのを視認し、撃沈と信ぜられた。

 その直後に零水一機が白瀬灯台附近に不時着水し漂流を始めた。
 
 続いて午後五時二二分に山下大尉機も同灯台の二二〇度六浬のところに不時着水したが、その際同機は転覆沈没し、搭乗中の山下大尉らは脱出できヂ、行方不明となってしまった。五日後の正月四日になって山下大尉の遺体が収容されたと記録に残っている。