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関東地区に再来襲

(筑波航空隊) 木原俊秀

海軍少佐 木原俊秀
 
扶桑 神通 40期飛学生 筑波空
 二〇年二月二五日戦死 ニーオ四月
 県立下関中学校(山口) 父正一 母ミス
 第一九分隊の伍長 図書係 軍歌係

  (戦況)
 二月一六日、一七日と関東地区を空襲した敵機動部隊はいったん南下して、硫黄島上陸作戦を支援した後、二五日再び北上し、関東地区の主として航空基地と零戦製造中の中島飛行機太田、小泉両工場を攻撃した。
 
 この時期、関東地区の航空隊に配属されていた期友は以下に示すとおり多数に上っており、そのほとんどは飛行学生を卒業後練習航空隊の教官として飛行学生や練習生の教育に当っていたが、戦局の緊迫に伴ない、兼ねて実戦機により第一線に立つようになっていた。


 菊池幸利 佐藤良一 吉松正博 木原俊秀 
高橋武治 二階堂春水 国分道明 鈴木光男 梅本五十六 大津留健 桧垣保雄 伊藤康夫 

 町田茂 宮沢正介 
速水経康 三木開 土井寛 安部政裕 寺村純郎 増田洪恵 美田雄次郎 高橋義郎 岡本春蔵 大島清二 佐藤百太郎 堀川久 金沢亨 山崎仁郎 吉成大治 白石景昌 田中弘 新谷隆好 新井今朝雄 中村博 市村吾郎

 筑波空教官の木原俊秀大尉は、前出の一七日の邀撃戦には零戦隊第二中隊長で出撃、石岡上空において敵グラマン七機と交戦その一機を撃墜したと同隊の「戦闘詳報」に記録されている。 二五日の再来襲時は大洗上空で敵グラマン約二〇機を逝撃していたが、午前八時ごろ被弾発火したので落下傘で脱出した。騙敵がこの落下傘に向って機銃掃射を浴びせ、木原大尉は筑波山ろく上空に華と散ったのである。
  
 当時、地上からこの死山聞を見守る人々があった。この人たちは、日本機が火を吹き搭乗月が降下するのを認め、救護に駆けつけたがあわれこの若武者は既に護国の鬼と化していた。この水戸市長岡花塚の村人たちは、この名も知らぬ鳥人の終焉の地に線香や花を手向けその霊を慰めてきた。戦後の調査により、この英霊が木原俊秀大尉であることを確認して遺族に通知がり、木原大尉の厳父木原正一とお母さんはこの見知らぬ人々の好意により愛児の戦死の模様を知り、一四年後念願かない戦没地を訪れたのである。(愛児の戦没地を弔うの記が期会誌に掲載された。

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