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グアム島の奮闘

 第五四警傭隊  武田元孝

海軍大尉 武田元孝

伊勢 隼鷹 山城 磐手 五四警
一九年七月二五日戦死(公報八月一〇日)二一オ四月
道庁立札幌第二中学校 父専松 母つるを
第一一分隊の小銃係 酒保養浩館係

  (戦況)
 グアム島には陸軍部隊のほかに、海軍としては第五四警備隊や残留航空隊など約一万八千五百名が所在して、同島の守備に当っていた。

 米軍の上陸は七月二一日の朝であり、わが守備隊はサイパン陥落の悲報にもめげず断固上陸する米攻略軍を迎え撃ったが、圧倒的な米軍の前に漸次後退して二七日夜にはテエアン附近に追い詰められるに至った。
 このグアム島で敵来攻に相対した期友は、同島守備に当っていた第五四警備隊の分隊長武田元孝中尉とマリアナ空兵器整備分隊長の杜三義中尉の二名であり、共にアブラ港の須摩地区において敵陣に斬り込み武田中尉が七月二五日、杜中尉は二日後の二七日戦死している。その後も抵抗を試みていた守傭隊は圧倒的な攻略軍に追い詰められ、八月一〇日には島外との連絡も絶え、一一日組織的な戦闘は終了した。

 五四警の武田中尉は、マリアナ地区守備兵力の増強が決定された三月一日付で「磐手」から同隊分隊長に配置され、須摩地区の分遣隊長として部下五〇名を率い同地区の警備に当り、同地区の対空陣地を指揮していた。
    
 杜中尉は、七五五空の兵器整傭分隊長として同航空隊と共にこの地に進出してきた。そして連続した敵空襲で航空隊としての機能を失った後、航空機、潜水艦による脱出作戦も不成功で、多くの隊員七共に残留することになった。残留の各飛行隊を集めて「マリアナ航空隊」が新編成され、敵の上陸が近迫した時機の七月一〇日に、特別陸戦隊を編成して、陸軍の指揮下に入っている。須摩地区の武田隊も七五五空司令の指揮する陸戦隊の第四中隊となり、分遣隊隊舎の北西に陣地を築いて配備にいていたであろう。
 
 敵上陸前の武田隊の対空戦闘の活躍状況を米モリソン戦史の記事は次のとおり賞讃している。《一六日、グアムとテニアン両島の飛行場に対し高速空母数隻をもって航空攻撃を加、え、予期する艦隊戦聞に対し敵の利用を防止するに努めた。日本機の相当数を空中及び地上に撃破したが、飛行場を無力化することには失敗した。対空防備が極めて優秀であったため、米軍機の相当数が撃墜された》と。
 武田中尉と杜中尉は、共にオロート半島の須摩地区でその最期を遂げたのであるが、その状況は、生還し復員した者たちが作成した「グアム島各部隊海軍部隊戦闘状況」には次のように述べられている。
 二一日朝、敵は朝日水道と昭和町海岸を中心とする二カ所に上陸した。昭和町に上陸した二か海兵師団は、二五日までに同地守備の陸軍を潰滅して須摩地区の第二飛行場に迫ってきた。第四中隊の武田隊は、中隊長以下約三〇名が同夜アブラ地区夜戦に参加し、敵戦車を攻撃して全月戦死した》と武田中尉の最期を、そして≡七日午後三時半楠本幾萱七五五空司令は、大隊指揮小隊及び陸海残月を集めて最後の総攻撃決行を命令した後、戦闘指揮所で戦死し、清水大隊長以下主要幹部仝月が抜刀敵陣地に漸込戦死した》と杜中尉の最期をそれぞれ確認している。
 
 同島守備隊の生存者は、約五百名であったという。両期友の戟死公報は、この島の玉砕日八月一〇日となっていたが、生還者の報告による実際の戦死月日とその状況は前述のとおりであった。今は観光の島となっているグァム島に遊ぶ若者は多いが、果して昔年の同世代の青年たちの流した血をどのように見ているだろうか。この島で戟後長く生き残った人たちのことはよく知られているのであるが。

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