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潜水艦によるキスカ守備隊の撤収

イ号第21潜水艦 赤壁行郎 (007)   & イ号第 7潜水艦 松田広和 (008)



@ 海軍中尉赤壁行郎の戦歴

 
武蔵 イ24
   一八年六月一一日戦死  二〇才
  県立長崎中学校
 
父四郎 母はや
 
 第四七分隊の小銃係 酒保養浩館係



 A 海軍中尉松田広和の戦歴
 
 
山城 七潜隊附(イ7潜)
  一八年六月二二日戦死  二〇オ

 
公立旅順中学校
 父広喜 母繚
 第六分隊の剣道係 相撲係


 
  (戦況)
 一八年四月の北東方面は、アッツ島沖の海戦直後であり、三月以降キスカ島に対する米軍の空襲が激化し切迫した情勢下にあった。三月二六日行なわれたアッツ島沖の海戦には、那智(大渕、菅山、宮沢、成田、大津留、
谷山正典)、摩耶(池田三郎、町田茂、小田野、桑原知、岩渕、川瀬、高田栄吉)多摩(伊津野鹿村、小林幸三、伊吹、伊熊)、阿武隈(飯田、香月、北川、大賀良平、浜尾)、電(桑村、上村典次)、雷(小林仟人)、初霜、若葉が参加し、多くの期友が初陣をこの海戦に飾ったのである。この方面への輸送は、霧の季節を待って実施する予定で、それまでは潜水艦に頼るほかはなかった。

 この間に米軍はアッツ島進攻準備を整えて五月一二日釆攻、守備隊は、孤立奮戦したが後続補給が続かず全月玉砕してしまい、続いてキスカ島にも敵の釆攻が予想されるに至り、五月一九日同島守備隊の撤収を一三隻の潜水艦で実施することになった。

 
 
イ号2潜、9潜、31潜、36潜、169潜、7潜(松田広和)、21潜(赤壁行郎)、171潜がこの撤収作戦実施を命ぜられ出動していったが、敵の航空機、水上艦艇の攻撃が激しく、特に霧中でのレーダー射撃に対してはわが潜水艦は手も足も出なかった。

 1 赤壁 行郎
 
 イ号
24潜には航海士として赤壁行郎少尉が実務練習を終了直後乗艦し、各地に転載していた。同期生の多くが普通科潜水艦課程を修業して、本格的な潜水艦乗りになつた以前から、松田広和少尉などと共に潜水艦に乗艦した数少ない潜水艦乗りである。

 五月二〇日トラックから異に帰り、休む暇もなく同地を出て今はソ連領となっている旧日本領の千島列島最北端にある幌延基地に進出したのは二七日である。

 同艦は、アッツ島に進出、同島連絡員収容に当ったが成功しなかった。六月七日アッツ島北約七〇浬において任務報告を発した後、キスカに向ったのであろうが、そのまま消息を絶ち同島にも到着しなかった。

  第二次世界大戦米国海軍作戦史(以下モリソン戦史という)によると同艦の最期は−〈六月一一日午前三時五分(米国の使用日時は一〇日午前入時五分である)霧中で米哨戒艇PCl四八七号とセミナ島附近で遭遇した。哨戒艇はソナーで推進器音を感知し、次にレーダーが七五〇ヤードの距離に探知を得、更に数分で二本の潜望鏡がボンヤリ見えた。艇長は、潜水艦の潜没するのを見て近接、爆雷五個を投下したところ潜水艦があたかも巨大な手で持ち上げられる様に水面に現われた。哨戒艇は、排水量において潜水艦の八分の一に過ぎなかったが、一九節で衝撃した。艇首は潜水艦の船体上に乗りあげ、艇底はその甲板を打ち遂に離れた。

 哨戒艇は、回頭して三吋砲及び二〇粍機銃を打ち再び衝撃した。艇長は、艇が切断するものと覚悟したが、横転沈没したのは潜水艦である)と伝えている。

 赤壁少尉は、潜水艦乗りとして戦死した最初の期友であり、その位置アッツ島東方のセミナ島北東四〇浬、北緯五三度l六分、東経一七四度二四分で、艦長は花房博44志中佐であった。

 イ号9潜、24潜が行方不明となり、霧中での損傷事故が多くなったので輸送は一時中止されていたが、一八日になって再興されることになり、イ号7潜(松田広和)とイ号169潜が第四揚陸点に、イ号36潜と34潜がキスカ島の鳴神湾に向った。松田広和少尉の乗艦イ号7潜は、この方面において既に二回にわたり輸送に従事し、第三回目の任務が嶋神港への弾薬、食糧、人月の輸送であった。

 期友赤壁少尉の艦が七日以降連絡のないことを知っていたであろう松田少尉は、今度の行動が大変なものであることを承知し、六月一五日朝、帰らざる作戟行動のため幌延を出撃していった。一七、八日は待機、一九日午後五時浮上してキスカ島に向っている。二〇日は霧のため入港できず、翌天明潜没のまま七夕湾に向い、午後二時半七夕岬を発見浮上、錨地に進入しつつあった。

2 松田 広和
 
 午後三時錨地南方一浬において突然砲撃を受け司令塔に命中、第七潜水隊司令玉木留次郎大佐、艦長長井勝彦少佐、航海長及び下士官兵四名が戦死し、通信長が負傷、艦は潜航不能となった。相手の敵艦は、米駆逐艦モナガン号であったことが戦後判明した。以下、同艦が香城、刀折れ矢尽きるまでの状況を、当時の同艦の報告電報と米資料により詳述し、航海士松田広和少尉の最期を明らかにしたい。


  霧中からの砲撃で司令塔勤務中の主要幹部が即死したので、先任将校水雷長関口六郎大尉(六十五期)は、直ちに旭岬に艦首を欄座して応急修理を行なった。航海士松田少尉は、この時迎えにきた大発で艦を出発、所在陸軍との連絡に当っている。艦は排水用高低圧管系の応急修理を終えたのでメンタンクを排水離礁し、七夕湾に回航後更に修理を行ない、潜航不能のままではあったが翌二二日出港して横須賀に向うことにした。

 出港後間もなく、湾外に待機して小た哨戒艇三隻に捕捉されたので、砲戟を交えながら引返して七夕湾に帰投しようとしたが、三度にわたり命中弾があり、艦長の代理である先任将校の水雷長、機関長と航海士松田少尉など八〇名が戦死、通信長重傷という大損害を被り又も悲惨な状況となった。松田少尉は《即死》と当時の電報に記載されている。幹部中ただ一人無事であった砲術長は、艦を指揮し砲戦を続け、午後一一時頃二子岩に再び欄座し、生存者五三名を陸上に移したのち艦を爆破処分した。
 
 その直前にこの砲術長
新藤尚男中尉(七十期)の発電した同艦長の状況報告に奥敵艦数隻卜交戦、刀折レ矢ツキタリ、陛下ノ御艦ヲ粉砕セシメ誠二申訳ケナシ、乗員一人ニテモ生残リタル者アラバ飽迄米英撃滅ヲ期スベシ》とある。

 筆者はこの他いくつかの電報をも閲読し、自然に当時の雰囲気に引き込まれ、松田少尉の最期を眼前で見るような錯覚を感じたのである。  

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