リンク元に戻る


米軍の沖縄上陸水上、水中特攻艇の出動
 沖縄根拠地隊・蛟竜隊 大河信義

海軍少佐 大河信義の戦歴
 
武蔵 四駆隊附 9期潜学生 六艦隊司令部附 沖
根附
  二〇年三月二五日 戦死 ニーオ三月
  第四五分隊の柔道係 体操体技係

 (戦況)

 四月一日午前八時になって沖縄本島の嘉手納沖にあった米軍は同海岸に上陸を始め、水際での抵抗をほとんど受けることもなく、昼過ぎまでには北、中飛行場を占領し、夕刻には同海岸一帯に約五万名に及ぶ兵力を上陸させたのである。

 沖縄に配備されていた水上、水中の奇襲隊は、艇長大河信義、川島巌両大尉以下の七隻よりなる甲標的隊(蛟竜隊)、一五隻の魚雷艇隊及び六二隻の震洋艇を保有する震洋隊であった。

これらの各隊は、いずれも上陸前の砲爆撃で大きな損害を被っていたので、その実動隻数は多くなかったが、敵の来攻を水際に迎えて果敢な奇襲を行なった。しかし、比島作戦でこの奇襲戦法を経験してきた米艦艇が夜間避退行動などの巧妙な防衛策をとったので、予期された戦果を挙げることはできなかった。

 この沖縄根拠地隊に二隻の甲標的が配備されたのは昭和一九年八月下旬であり、沖縄本島中部の本部半島にある運天港を基地として訓練を始めた。この隊の司令は七十期の鶴田伝大尉であり、新編時には艇長として川島巌、上村(中島)典次、阿部六郎の三期友が進出したが、二〇年の一月〜三月にかけて上村と阿部が内地に転勤帰還している。

 この頃、甲標的丁型が「蚊蛟竜」と正式に命名され、増産により各地に配備されるようになり、沖縄にも花田賢司隊の三隻と続いて大河信義隊の三隻が進出することになった。花田隊は旧式のため外洋における長期自力航行で故障続出し、途中で本土決戦用として呼びもどされた。大河隊は、三月半ば無事到着して鶴田隊に編入されたが、旬日を出でずして敵の来攻を迎えた。

大河隊の進出でようやく七隻を保有することになったが、それまでの空襲での被害が七隻にも及んでいた。

 トラック島に進出の途次海難のためサイパンに配備変更された深佐安三と後藤恭祐両期友が同島で玉砕し、ダパオにはこの沖縄出身の照屋盛通が進出していた。照屋は自分の故郷に配備を念じていたかも知れないが、人間の運命は判らないものである。

 三月二五日この鶴田隊に出動命令が下り、夕刻大河大尉の二〇九号艇と他の二隻が運天港を出撃して、慶伊瀬島南方で陸上砲撃中の敵戟艦群の攻撃に向った。
 
 敵が密集する嘉手納沖までの進出航路は堺瑚礁もある海域で、まして夜間のことであったから進出後間もない大河艇にとっては大変なことであったろう。

 
 この夜の攻撃で、六七号艇が慶伊瀬の北五浬で戦艦を襲撃し魚雷二本の命中を認めたが、大河艇と他の一隻は出港後連絡なくそのまま未帰還となったのでその行動は明らかでない。奇襲を受けた敵が驚いて反撃を始め、周章狼狽を極め、《リーフに乗り上げた駆逐艦》もあり、また《これらの敵が数時間にわたり爆雷攻撃を続けた》という記録が残っていることから、大河艇などの攻撃は激烈なものであったろうし、この二隻の艇は、敵の爆雷攻撃でその最期を遂げたと推定される。

 大河大尉が末帰還となり、その弔い合戦を闘ってその後の出動に備えていた川島大尉も整備のため桟橋係留中に他艇との衝突でその愛艇を失ってしまう等敵地上軍の運天港地区来攻の際にはただ一隻残すのみとなっていた。命によりやむなくこの一隻をも処分し陸戦に移行したこの隊は沖縄守備の陸軍部隊等と行をともにしたのである。

 三月二八日に佐世保鎮守府長官から、これら奇襲隊に対し、〈第二蚊竜隊及ビ第二七魚雷艇隊ガ戦機二投ジテ戟果ヲアゲツ、アルハ大イニ可ナリ、皇土守護ノ挺身兵力トシテ、今後一層ノ健闘卜成功ヲ祈ル〉と賞詞電報を受けていたが、残念ながら彼らの死によっても敗勢をばん回するには至らなかった。 当時運天港にあったコレスの住田充男君は、〈二〇九号艇の大河大尉は、内地から運天港に選出して間もなく出撃したので、ほとんど話をする機会もなかったが、桟橋附近を悠然と歩いていた姿がいつまでも脳裏にやきついている〉と同君著の「海軍めし炊き陸戦記」で回想している。


追記

大河信義の遠縁にあたる方からのメール来信

 私は71期大河信義の遠縁にあたるものですが人間魚雷で沖縄で3月25日に亡くなったと身内のものから聞いただけで詳しいことは知りません。 インターネットでしらべてみると沖縄西方、沖縄根蛟竜とか出てくるのですが沖縄根という意味がわかりませんし、蛟竜というのが特殊潜水艦のことなのかなと思うだけでそれ以上の事はわかりません。
 
 何者かわからない人に、どこまで伝えていいかお考えになるでしょうが、
普段はどんな生活で、どんな訓練をして、何という船で出撃して、どんな風に亡くなったのか、御存知の方がいらっしゃれば、伝えていい範囲で結構ですので教えていただければ、大変嬉しく思います。
 
 ご本、資料を母に見せました。命日が分かった事、人間魚雷ではなくてまだしも。と、申しておりました。縁あった人が悲惨な最期を遂げられたので,御供養してさしあげたい、というのが母の願いでした。頂いた資料を見ながら、亡き人を偲び、母なりにご冥福を祈るのでしょう。


  ご多用でしょうにお返事を頂きまして、ありがとうございました。せっかくお教えをいただいたのですが、急に、用事がふえ、予定より早く、佐藤様のメールをみないででかけてしまいました。申し訳ございません。
 
 それでも、江田島の旧兵学校を見学させていただきました。講堂の中まではいらせていただき、資料室では、戦死者の名簿もありまして、母とここに載ってるんでしょうね、とはなしていたんですが、後で、案内する方に、知ってる方がいるといいますと、みせてあげると言って下さって、頂いた本に載っていたのと同じ大きな写真を見せていただきました。母も、私も胸が一杯になりました。
 
 母は一度来てみたいと思っていたんだそうです。その夜は、江田島に泊まり、いろんな話をききました。信義さんは、薩摩の殿様からの奨学金がおりていた方だったこと、とてもきれいな字をかかれるかただったこと、等々。
 
 母の心にひっかかっていることが、またひとつ消えました。そうすることで、ある日、ポックリいってしまうんではないか、私はそんな心配をしています。親には、いつまでも、達者で、長生きしてほしいものです。