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ウェーク島に陸兵輸送 
 駆逐艦涼月 井上 洸 と 友成通泰


海軍中尉井上 洸の戦歴

 扶桑 涼月
 一九年一月一六日 戦死 二二歳四月
 大連第二中学校 
父理吉 母(死亡)
 第二五分隊の酒保養浩館係 倶楽部係


 海軍中尉友成通泰の戦歴

 扶桑 大淀 涼月
 一九年一月一六日戦死 二〇歳
 県立湘南中学校(神奈川 
父佐市郎(海軍軍人)母ハル
 第二八分隊の通信係 馬術係


 一八年三月未からウェーク島への陸軍部隊の増強が始まり、駆逐艦涼月が僚艦初月(斎藤孝雄=いずれも新鋭の防空駆逐艦である)と一八星夜にわたる不眠不休の第一次輸送を終了して、一月九日呉に帰って来た。
 
 第二次輸送は、陸軍部隊を満載した赤城丸の護衛であり、護衛の各艦にも陸兵が乗艦している状況であった。

 涼月には井上洸と友成通泰の二名の期友がおり、第一次の輸送を終えた後も次の出港準備で休む暇もなかったであろう。

 一月一六日、船団部隊は豊後水道の西掃海水道を出撃した。その二時間後土佐の山々が近くになって釆た午後一時頃のことである。船団の前程で網を張って待っていた敵潜水艦の攻撃圏内に入った涼月に悲劇が襲った。

 僚艦の初月からみると司令駆逐艦の涼月が急に白煙に包まれ瞬間に全艦影が隠れて、なかなか姿を現わさない。一瞬轟沈かなと初月の斎藤孝雄は思った。ようやく白煙の中から現われた涼月は煙突から前部がすっぽりとなくなっているという異様な姿であった。しかし、エンジンは依然として二〇ノットの高速回転を維持していたため、切断された部分の船殻が水を切り前の方は山の様な白波が立っていたのであり、また艦橋を失った同艦は連絡する方法がなかったわけである。
 
 これが僚艦初月から見た涼月被雷時の状況であり、第六一駆逐隊司令脆仰満義大佐、艦長瀬尾昇中佐以下総計一二一名(内八九名は便乗中の陸軍部隊)が行方不明となり、一四名が戦死した。当日は厳冬の特に寒い日であったというから、海に放り出されても助からなかっただろうし、大部分は切断した前部居住区に居ってそのまま海底に沈んでいったと考、えられる。井上恍と友成通泰の両少尉がどのような最期であったか明らかでない。

 沈没を免れた船体は、苦心の末宿毛湾に曳航し、呉で修理後戦列に復帰していたが、二〇年四月の戦艦大和特攻隊に参加した。その時も大被害を受けたにもかかわらず後進で佐世保に帰着し、そのまま終戦を迎えている。

 この時には、
岩越朴雄が乗艦し奮戦して帰還している。