リンク元に戻る


パラオ、ヤップに来襲
パラオに来襲・船団港外で全滅 

 
(駆逐艦若竹) 近藤三嗣



海軍大尉近藤三嗣の戦歴

 扶桑 香取 普砲学生 若竹
一九年三月三〇日戦死 二二歳
 県立千葉中学校 
父幸蔵 母やす
 第三四分隊の図書係



 
  三月三〇日と三石の両日にわたって、米機動部隊がパラオ島とヤップ島を空襲し、翌四月盲にはメレヨン島を攻撃してこ蒜隊は去っていった。トラック島が奇襲を受けてから有半の後のことである。敵機動部隊の攻撃は益々急であり、マッヵーサー陸軍攻略部隊のニューギニア攻略と相応じた作戦であった。

 パラオ諸島は、トラック基地とミンダオナ島との中間にある要衝であり、三月二九日に米機動部隊がパラオ近海で発見されたとの報告にょって、パラオ港に在泊していた旗艦武蔵に乗艦していた聯合艦隊司令部は、長官以下がパラオ島に司令部を移して、武蔵及び第二艦隊の主力艦艇を北西方に避退させたが、戦闘艦艇以外の船舶に対する避退措置は十分とは言えなかった。
 
 パラオ所在の第二六航空戦隊は、再建途上にあったが、この空襲でそのほとんどを消耗してしまった。そして増援のため進出して釆た第一航空艦隊の航空兵力も、約九〇機を失って、残り桟数は約百機、来るべき「あ」号作戦に大きな影響を及ぼすことになり、一部を哨戒兵力として残してその主力はダパオに移動した。
 
 
パラオの陸上に司令部を移していた聯合艦隊司令部は、爾後の作戦指導の関係から、ダパオに進出することとなり、迎えに釆た二機の飛行艇に分乗し、三月三一日の夜同地を離水していったが、途中の天候不良で、古賀峯一長官、福寧参謀長初め主要参謀の乗る二機とも行方不明となり、海軍は山本元師に引き続き又も長官を失ってしまった。
 
 急きょ出港した武蔵は、港外に待ち受けていた米潜の雷撃を受け被雷したが、航行を続け四月三日具に帰着している。
 戦闘艦艇以外に対する避泊措置が十分でなかったので、同島所在の船舶は、この空襲によって大きな被害を受け、特に聯合艦隊附属の油槽船三隻が沈没し、爾後の作戦実施に大きな障害を及ぼし、さらには工作艦明石の喪失は何物にも代え得ないものであった。
 
近藤三嗣中尉の最期

 近藤三嗣中尉は普砲出身で駆逐艦若竹(艦長田中敏雄大尉)の先任将校、砲術長であった。同艦は、この時、パラオに在泊し、二九日出港予定のタラカン(ボルネオ)向けパタ船団(五州丸外四隻)を護衛することになっていた。

 ところが、出港準備が予定どおり進まず、完了したのが同日の夜になってしまったので、出港を翌三〇日に延ばしている。
 
 翌三〇日早朝出港したが、パラオ西口水道の三二〇度三〇〇〇米において敵艦載機二五機の爆撃を受けて、船団全部が沈没し、護衛中の若竹も被弾大爆発を生じ沈没した。