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トラック被空襲 阿賀野救助のため出動
(巡洋艦那珂)
松永正道 と 山下 肇



海軍中尉 松永正道の戦歴

 武蔵 扶桑 那珂
 一九年二月一七日戦死 二一歳
 県立熊本中学校(熊本)
父(死亡) 母ナツキ
 第三一分隊の短艇係


海軍中尉 山下 肇の戦歴
 長門 陸奥 那珂
 一九年二月一七日戦死 二一歳
 県立日川中学校(山梨)
父(死亡) 母さぎの
 第二〇分隊の軍歌係

                                      (戦況)
  
 一八年四月初旬、内海西部にある桂島艦隊泊地に入港した四本マストの軽巡那珂に四名の期友候補生が第一艦隊の各艦から着任した。同艦は、長い修理を終えて僚艦五十鈴と第一四戦隊を新編し、トラックに進出する直前であった。
 
 艦長室に集合して今泉善次郎艦長から各自に与えられた個有配置は次のとおりであった。
  
 松永正道 甲板士官     (扶桑から)
 山下 肇  砲術士      (陸奥から)
 川島 胖  通信士      (陸奥から)
 
中村利夫 航海士兼見張士(長門から)

 以上は
中村利夫の回想記【私の海軍生活最後の働き場となった那珂とこの対空戦闘で戟死した期友松永、山下両君の最期】の目頭に出てくる四期友の着任状況である。 その後川島胖は、七月二〇日病気となって退艦している。
 
 那珂は、横須賀経由でその月の末、トラック泊地に進出して、第四艦隊(司令部はトラック鳥海上に所在)に配属され、ラバウル、マーシャル、クサイ、ボナペ、ナウル、上海などへの輸送作戦に従事した。

一二月一六日、久しぶりの通常配備で三名が揃って上陸、パイン【料亭小松)でS、ハーフ二〜三名をあげ、飲んでいた〉。戟陣も忙ばかりでなく入港すれば閑もあって痛飲したものだ。その最中、艦からの通知で阿賀野被雷、救肋に那珂が派遣されることになったことを知った三期友は急きょ帰艦した。まさかこれが最後のクラス会となるとは思ってもいなかったであろう。

 一七日早朝、錨地を抜錨、香取船団より一足早かったのであろうか、北水道に向っている。北水道近くで敵の第一彼の奇襲攻撃を知り、戟闘準備を整えて礁外に出た頃、トラックの四艦隊司令部から命阿賀野沈没セリ、引返セ》の電報命令を受けたので、敵機を避けて非敵側となる環礁の西方を通り南水道から入ることにして、西方に針路をとった。
 
 この艦への敵の第一波は、午前七時ごろで、これは何とか逃れた。その後、低速で南下中の哨戒艇(この艇に後刻救助されることになった)を追い越し、南下を続けていた九時ごろ、来襲の第二彼の急降下爆撃機一〇機もなんなく撃退した。
 
 この戦闘でこ息ついた
中村利夫は、暑かったのでそれまで着装していた戦闘服装の手袋をはずしてレインコートのポケットに入れた。レインコートに手袋、戦闘帽着用の上に鉄帽をかぶったのが、当時の艦上での戦闘服装で、それまでの戟訓で一番多い火傷を防ぐためのものであった。中村回想記にはこの間のそしてそれ以後の対空戟関について詳しく記述してあるが割愛させて頂く。

 この時、期友の戦闘配置としては、山下砲術士が主砲発令所長で艦橋下方の発令所にあり、松永甲板士官は高射指揮官で艦橋甲板後部の指揮所において一〇門の二五粍機銃と一二・七糎二聯装高角砲一基を指揮している。中村航海士は艦長附で艦橋内の左舷で艦長の後方に位置していた。乗艦の司令官、参謀などは艦橋右舷にいた。
 
 正午ごろ第三次の空襲が始まり、これは本格的な攻撃であり避けることは出来なかった。ほとんど同時に、艦橋の右舷に魚雷、艦橋左後方に二五〇砥爆弾が命中した。《その瞬間、艦橋は一時火の海と化し、私の周りもー面真っ赤になった。私も一瞬艦橋の床に身を伏せていたが、艦が全速力で走っていたので炎はみるみる後の方に流され、私の周りもやっと炎がなくなった》、そして空止ち上って後の方を見ると艦橋の後はまだ火の海で、炎と煙のため何も見えない。多くの乗員たちも倒れたり、吹き飛ばきれたりしたのだろう、一人も見つけることができなかった》と中村航海士は被害のものすごさを述べ、続いて期友の最期を《山下砲術士は艦橋下の発令所にいたから魚雷の爆発で所内全月が即死》、《高射指揮所の松永甲板士官は爆弾で即死》と確認している。
 
 そして 《艦橋内も私を境として前方の艦長、右舷の司令官たちは何ともなかった》 が、
中村自身は《火の中に立っていた時、手袋をはめ忘れた両手の甲の表皮がずすけた障子紙の様にチリチリと黒く変色していったのを、今も咄っきり眼の中に思い浮べることができる》ほどの重傷を受けた。そのため終戦まで、更に終戦後もそうであったと思われるが、療養生活を送ったのである。
  
 魚雷と爆弾が同時に命中した那珂は、艦橋後方の部分で切断され前部は海没した。ぞれは被爆、被雷時艦橋にいた中村航海士が艦長等とともに艦橋の窓から脱出し、海に投じた直後のことであり、頭をもぎ取られても船体は全速力で、漂流者の鼻先を航過していった。その後行脚が止り、救助が始まって、内火艇で再び艦上の人となった艦長や中村航海士に待っていたのは、午後二時過ぎの第四彼の急降下爆撃機四機であった。
 
 停止中の那珂はもはや対抗力はなく、南水道の西方約三〇浬、北緯七度一五分、東経二五一度一五分で浸水沈没した。入水した艦長以下二一〇名が前出の哨戒艇に救肋され、その夜半礁北水道内に入ったが、要一八日早朝の空襲終了まで、負傷者を第四海軍病院に収容することもできなかったという。その後中村などの重傷者は、病院船で輸送され、三月九日佐世保に上陸した。