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 マリアナ沖海戦  「飛鷹」沈没と「隼鷹」被爆 
(航空母艦 隼鷹) 小久保喜八郎

海軍大尉小久保喜八郎の戦歴

 武蔵 日進 横鎮附 竜鳳 隼鷹
一九年六月二〇日戦死 ニー歳五月
 県立仙台第一中学校 
父兵四郎 母ひでの
 第二五分隊の短艇係


 一九日の航空決戦で航空兵力のほとんどを失い、前日に敵潜のため大風、翔鶴を失っていたわが機動部隊は旧戦場を後に北上していたが、その翌朝、すなわち二〇日補給部隊と合同した。索敵によって敵艦載機の行動を認めたが、近くに米空母部隊の存在が発見されず、空襲の算もないと判断。
 
 この時、ミツチャー艦隊の索敵機が二〇日正午、西北西二二〇浬を西進中の日本艦隊を発見報告した。これを知ったミッチャーは空母の攻撃圏外でありそして夜間着艦を必要とする状況であったが、全機に発艦を命じ第一次攻撃隊の戦闘機八五機、爆撃機七七機、雷撃機五四機が発進。しかし、索敵機の発見位置は訂正され、日本艦隊は更に六〇浬遠方にあることが判明し、第二次攻撃隊の発進を取り止めた。
 
 わが司令部は敵の大型機が艦隊に触接して基地との電話連絡を始めたのを知り、その交信状況から、近くに敵空母群が所在すると判断、この敵に対して薄暮攻撃することを決意した。そして午後五時二五分に、雷撃隊を発進させ、第二艦隊の水上部隊に夜戦の決行を命じた。

 一航戦の空母から前路索敵隊が、続いて雷撃隊が発艦した直後の午後五時半ごろで、敵攻撃隊がわが機先を制して飛来し約一時間にわたって、瑞鶴に約五〇機、二航戦の隼鷹、飛鷹、竜鳳の三隻に約四〇機が、そして第二艦隊には約三五機が攻撃を加えた。

 別勤していた前衛三航戦の三隻の空母は本隊への敵機来襲を知り、攻撃を終って帰る敵機に追尾して敵母艦群に攻撃をかけるため、天山二機、爆装の戦闘機三機に直衛機四機をつけて空中待機させたが、敵情報の入手が遅れたために攻撃を取止めて各機に着艦を命じた。その直後、この母艦群にも敵の来襲があり、着艦を中止した機は空中戦に入った。
 
 敵は、この空中撃で約二〇機を失い、攻撃を終了して帰途につき夜間着艦しょぅとして約八〇機を亡失したと記録にある。一方わが航空機は、末帰還一〇機、不時着水亡失三機を出し、空母飛鷹を失い、乗艦中のパイット谷川洋一中尉が戦死し、
堀端徹夫と大山雅清生還。隼鷹中破で小久保喜八郎中尉が被爆戦死した。その他、瑞鶴、千代田、榛名にも被害があったが、航行には支障なかった。
 
 敵の攻撃は、管理人達の直衛駆逐艦には目もくれず、空母群に集中、その攻撃ぶりは猛烈であった。今や攻守その所を替え開戦へき頭における日本艦隊の勇姿はどこにも見ることができなくなっていた。


  敵機の集中攻撃を受けた飛鷹は被弾、航行不能となり、敵が去った後、僚艦が曳航して戦場を離脱しようと試みたが、被害が拡大して結局放棄せぎるを得なくなり総員退去の命令が出され、乗員は次々に海に飛び込んでいった。
 
 管理人は、隼鷹側の直衛に配備されていたので、飛鷹の被爆は遠くから望見しただけで記憶が明らかでない。その後、堀端徹夫、大山雅清の両期友は駆逐艦に救出されたが、同じ艦上に谷川中尉の姿がないので他の艦に救助されたのではないかと思っていたという。艦隊が中城湾に入港後、あちらこちらに助けられていた来月が僚艦隼鷹に乗り移ってきて、その時、はじめて谷川中尉の最期を知ったという。
 
  駆逐艦一隻を護衛として残し日本艦隊は引き揚げた。飛鷹の火災は、急速に拡大し遂に艦首から艦尾まで一面の火となり、激しい爆発が三回起り、小爆発が数回これに続いた。夕闇が迫る頃、飛鷹は艦首から沈み、推進器を水面に露出し、魚雷の命中二時間後、沈没、護衛の駆逐艦が探照灯を照射して生存者を捜索した。
    
 飛鷹の被爆に前後し、僚艦隼鷹に向って急降下した爆撃機の投下した爆弾が艦橋附近に命中し、爆発の火焔と煙が立ちのぼり、爆破された構造物の破片が飛散するのを管理人は目のあたり見た。やられたなと思ったが、隼鷹は依然として戦闘力を発揮している。期友の隼鷹分隊長で見張指揮官であった小久保喜八郎中尉が即死したことを知ったのは作戦が終り呉に帰ってきた後であった。
 
 戦闘が終了後、海軍の儀式にのっとった艦の葬送式が行われた。戦闘艦橋の破壊されたコンクリートブロックを錘とし、せめてものはなむけに半紙に軍艦旗を画いて、一人一人の胸に手向けた。僧侶出身兵曹の読経回向のうちに彼らは後甲板のデリックで吊りあげられ、水葬に付された。

                            (艦隊は中城湾に避退)

 二〇日の午後、夜間雷撃のため発進していったわが攻撃隊は敵を発見することができなくて、そのまま帰還しなかったものもあり、艦側まで帰投したが夜間着艦ができずに海上に不時着水するものもある等その全機を失ってしまった。

 一方、夜戦を命ぜられた遊撃部隊も一旦は発動したが、敵位置が正確でなくまた航空支援も得られなくなったので決行を断念し、艦隊はひとまず北西方向に避退し沖縄の中城湾に向った。このような状況で、二〇日の防空戦闘も、夜間航空攻撃もただ消耗のみ多く何らの翼を挙げることなく終了し、残存航空機は六〇機に激減した。

 敵の攻撃がわが母艦に集中され、急降下する敵機の攻撃ぶりは果敢なものであり、直衛駆逐艦であった筆者などの艦には目もくれなかつたこと、帰投するわが航空機を敵と見誤って発砲した艦があったほどの混乱あったことなど記憶している。

 何にもまして痛感したのは、彼我航空戦力の格差が大きかったことで、勇躍発艦し上空で集合発進した攻撃隊が発信してきた敵ヲ見ズ…敵戦闘機ノ攻撃ヲ受ケツツアリ等の悲痛な報告告が、このような海戦に初めて参加した筆者にとって今も昨日のことのように耳だを打つ。
 
 わが艦隊は、避退を続けて三々五々沖縄の中城湾に入泊し、一息ついたところでその大部分は内地に向け出港、敗残の身を瀬戸内海西部に寄せ、一方、ダパオで待機中の扶桑を迎えるため四駆隊の野分(筆者乗艦)、満潮(渡辺譲)、山雲(渡辺朋彦)が同地に向け出港、また玉波(河野千俊)と藤波がマニラに派遣された。かくして、「あ」号作戦は悲惨な結果で終了した。

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