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志摩部隊別動隊の喪失
(駆逐艦浦波) 川畑 努
(駆逐艦不知火)中島正俊


海軍大尉 川畑 努

 長門 足柄 浦波
一九年一〇月二六日戦死 二〇歳八月
 県立岩国中学校(山口) 父(死亡) 母ヨシ
 第一分隊の倶楽部係



海軍大尉 中島正俊
 日向 津軽 飛鷹 伊勢 不知火
 一九年一〇月二七日戦死 二一歳一一月
 府立第六中学校 父正国  母クニエ
 第四四分隊の伍長 弥山係 通信係



 スリガ歳海峡に突入した志摩部隊本隊から分派別動の第三戦隊(司令官左近充少将)の旗艦青葉(松本崇)、鬼怒と駆逐艦浦波(川畑努)は、二じ月二言リンガ泊地を出撃し途中マニラ湾外で旗艦青葉が米潜の攻撃により被第六編 フィリピン沖海戦雷し航行不能となったので鬼怒が曳航してマニラに入った。ここで司令部を鬼怒に移乗した後、浦波を率いてミンダナ歳島北部のカガヤンに進出、同地の陸軍部隊を乗艦させレイテ島西岸歳ルモックに掛軋りマニラヘの帰途に就いた(これが後述の第一次多号輸送と見なきれている)。
 
 マニラヘの行程は五時間である。平穏な航海を続けて、二六日の午後一〇時にビザヤン海の北西海面に入り、マスべテ島とバナイ島との間のイントトロ海峡に差しかかろうとした時、アベンジャー艦上攻撃機群に捕捉されてしまった。
 
 来襲した攻撃隊は、戦闘機二九機に護衛された二三機の一隊である。正午ごろ、鬼怒が後部機械室に損傷を受けて速力が落ち、二時間後航行不能となった。浦波も被弾して航行を停止、一時二四分に北緯一一度五〇分へ東経一二三度二三分の海面に沈没した。
 
 この戦隊とは別動の低速の第一輸送隊が後続していたが、同海面に到着してこの両損傷艦の警戒と漂流乗員の救助に当っているうちに、午後五時半鬼怒も沈没した。
 
 司令官は、弟一〇号輸送艦に移りマニラに帰投したが、浦波水雷長川畑努中尉の最期は石坂資料によると、一○時五五分、敵機の機銃掃射による被弾で戦死した、となっている。同艦艦長は佐古加栄少佐であった。士官中徒一人生き残った七十二期生があったと聞く。

 鬼怒、浦波の被害を知った志摩長官は、不知火(中島正俊乗艦)を救助に派遣した。スリガ歳海峡に突入後反転脱出してコロン湾に帰着していたこの不知火の艦長は荒悌三郎中佐であり、中島正俊中尉は航海長であった。
 
 鬼怒、浦波(川畑努)の救肋を命ぜられた不知火は、二六日午後八時三〇分出港した。遭難現場に到着したのは翌早朝三時ごろで、約四時間にわたる捜索をした。

 不知火乗艦の第一八駆逐隊司令井上大佐は、八時五分前になって、艦影ヲ認メズ、第一六戦隊ノ行動ニッキ通知ヲ得度、我一応帰途二就ク、と報告してきた。

 帰途に就いた同艦から、〇九三五、敵艦上機九機見ユ、との電報があったが、それを最後にこの艦も消息を絶ってしまった。
 
 不知火の消息が明らかとなったのは、五日後の一一月一日である。この日、那智の水上偵察機が不知火の捜索に当っている時、たまたまセミララ湾に欄座中の駆逐艦を発見して着水したところ、それは行方不明となっていた早霜で、生存者が陸上にあって救助を待っていることがわかり、不知火が二七日午後一時三〇分この島の西方千米で米空母機により撃沈され、全員が戦死したということも判明した。約四時間の対空戦闘の未でのことであった。
 
 那智水偵の報告により、早霜の来日只の一部は救助され、その当時同艦の通信士であった山口裕一郎少尉による藤波と不知火の最期は次のとおりである。

 一〇月二七日藤波、不知火の二艦は、セミララ島近くの島陰に早霜を発見、発光信号で連絡しながら接近。その時又も東方から敵機来襲、三隻は直ちに砲火を開いて迎えうったが、この時、敵は航行中の二隻に集中攻撃を加え、両艦は我々の眼前で遂に火災を起すにいたった。火と煙を上げながらも防戦奮闘していたが、水平線の彼方で藤波沈没、不知火もまたミンドロ島附近に見えなくなってしまった。早速早霜から内火艇を派遣し、人員救助に向ったが、又空襲を受け遂に一名も救助できずに帰った。