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船団オルモック進入
(駆遂艦若月) 石川杳平

海軍大尉 石川

 扶桑 熊野 八雲 磐手 若月
 一九年二月一一日戦死 二二オ二月
 県立豊橋中学校(愛知 父正六 母みち
 第八分隊の小銃係




 第四次多号船団は、低速の第三次多号船団より先行して発動され、駆逐艦霞(伊吹寿雄)、潮、秋霜(原田実)、朝霜(芦田収)、長彼、若月(石川杳平)が警戒に当ってオルモックに進入揚搭した。
 
 揚搭を完了した船団はその帰途においてほとんどが撃沈されてしまい、秋霜も直撃弾で死傷者五五名を出し先任将校が戦死して、航海長の原田実中尉はその職を代行することになった。
 
 第三次多号船団は、低速船五隻からなり早川幹夫司令官が島風(原田盛之)に将旗を掲げ、浜波、初春(森谷尚幸)、竹が警戒艦として出撃した。その途中第四次輸送を終了して帰還中の若月と朝霜が反転して伍間増加された。

 一一日オルモツク水道中央部分にさしかかったこの船団が午前八時ごろ目的地を目前にして敵機群の襲撃を受けた。増達し分散隊形をとり、煙幕を展張して回避に努めたが、低速の輸送船に攻撃が集中されて次々と被弾沈没し全部がオルモツク湾に潰えた。

 輸送船の攻撃を終った敵機は、引き続いて護衛艦に攻撃を移し、まず石川平中尉が乗艦する若月(艦長鈴木保原中佐)が、続いて旗艦島風(原田盛之)が撃沈された。若月では石川航海長とそれに砲術長で兵学校時代の警折笠重康少佐も艦と運命を共にした。島風でも乗艦の早川司令官や雪月の多くが戦死した。航海長の原田盛之などは附近の島に泳ぎつき、ゲリラに悩まされながら友軍に救助された。
 
 その後,長波も浜波も撃沈され、フィリピン沖海戦で連戦して無事生き残った歴戦のこれら駆逐艦も敵の圧倒的制空下連日の強行作戦によって力尽き次々にカモテス海にその最期を遂げていった。