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水上部隊の作戦・ 隼鷹、木曽のブルネ一輪送

(駆逐艦秋風) 三木 鯛


海軍大尉三木稠久の戦歴

 長門 妙高 秋風
 一九年一一月三日戦死 二一歳一〇月
 県立横須賀中学校 
父太市(海軍軍人) 母富由子
 第七分隊の弥山係 銃剣術係
 


 内地から北ボルネオのプルネーまでの緊急物資輸送任務をもった空母隼鷹と軽巡木曽が駆逐艦夕月船団(西村幸雄、水谷弘康)、卯月及び秋風(三木欄久)の護衛を受けて、一〇月三〇日佐世保を出港した。この時期になると商船のほとんどが海没し、残存の空母や水上艦艇が緊急物資の輸送に当らざるを得なくなっていた。

 一一月三日、内地では菊花薫る明治節の当日、この船団は南支那海を南下していた。午後一〇時五三分、北緯一六度四八分、東経二七度一七分の海域にさしかかった時、三木欄久中尉の乗艦する秋風が戦後ピンタード号と判明した敵潜水艦の雷撃を受け大爆発を起し、船体が切断したもようでほとんど轟沈に近く沈没した。魚雷命中五分後に、僚艦の夕月が秋風の艦尾部分が海中に没するのを認めている。
     
 秋風被雷後は卯月が船団の直衛を続け、現場に残った夕月は対潜掃討と秋風来月の捜索救助に当ったが、翌朝の二暗までに情報が得られなかったので、救助作業を打切って主隊の後を追った。
     
 夕月に乗艦中の第三〇駆逐隊司令(沢村成二大佐)が発した当時の電報に、《艦長山崎仁太郎少佐以下二〇四名悉ク遭難セシモノト認ム。誠二痛恨二堪へズ》とその最期を弔っている。西村と水谷の両期友は、三木中尉の身を案じ、うしろ髪を引かれるような気持で現場を去っていったであろう。後にこの両期友も多号輸送作戦に参加し乗艦が撃沈されたが、その際は本ホームページの管理者
佐藤清夫の乗艦桐で救助した。そして二人はマニラに陸揚げされ、マニラ市街戦に参加することになった。