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南支部海航路の終焉(南号作戦)・帰国艦に便乗し内地への赴任『中
(横須賀鎮守府附) 徳島清雄


海軍少佐徳島清雄の戦歴
 
日向 羽黒 横鎮附 
二〇年四月六日戦死 二三歳九月
 府立第一中学校
父清松 母キタ
 第三一分隊の剣道係 銃剣術係




 南支那海の制海、制空権は、ハルゼー艦隊の侵入以来完全に敵手に落ち、同方面の船舶運航は極めて困難な状況に立ち至った。三月に入ると米軍の沖縄進攻、本土への来襲激化などにより、船舶の運航海面は極度に縮少されて航空護衛の範囲も次第に局限されており、三亜にも敵機の来襲が連続し、
山口守人大尉も手島文男もこれを迎えて奮戦していた。
 
 一月一二日の聯合艦隊命令で昭南(シンガポール)方面からの重要物資を送還する「南号作戦」の実施が始まって、その後多くの船団が就航したが、被害極めて大で、二月下旬以降昭南を出港する船団は急速に少なくなり、出港するものの多くも、南支那海の底深く沈没の運命にあった。護衛艦艇さえも無事日本に帰りついたものは幸運という感じで、可動艦艇は日に日にその数を減じていた。このような状況で三月九日遂にこの作戦は終結が令された。そして最後の「ヒ八八J」船団が三月一九日昭南を出港した。
 
 これ以上出港が遅れれば、内地に到着する見込みがなくなるからというので、大小いろいろの船が南方各地から集められ、急いで編成された船団であった。護衛艦も方々から集められ、その頃では珍らしく大きな船団となった。参加船九隻に護衛艦八隻であった。
 
 この船団は出港した翌日米潜水艦の攻撃で商船三隻が撃沈され、更に仏印沿岸を北上中に次々と潜水艦及びB24の攻撃を受け商船全部と護衛艦艇五隻が犠牲となり、三月二九日には残ったもの護衛艦三隻(駆逐艦天津風、海防艦第一号及び第一三四号)だけとなた。
 
 この残った護衛艦のうち海防艦第一三四号に徳島清雄大尉が便乗し、内地への赴任を急いでいた。

 彼は、それまで重巡羽黒の分隊長であり、フィリピン沖海戦で活躍し、一月五日附で横須賀鎮守府附に発令された。昭南で中島文生大尉と交代した後、内地への便船を待つこと三か月、長い焦燥の毎日であったことだろう。
 
 三隻の護衛艦は、支那大陸南部沿岸沿いに北上中の四月六日午後一時少し前に仙頭東方沖の北緯二三度五五分・東経一七〇度四〇分において、在支那の米陸軍第三四五爆撃大隊のノースアメリカンB25の来襲により、海防艦第一号と徳島大尉便乗の第一三四号が相次いで被弾沈没し、徳島大尉は戦死した。