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ルソン山中の持久戦
(横須賀鎮守府附) 吉田邦雄


海軍少佐 吉田邦雄

 山城 長良 熊野 横鎮附
 二〇年七月三〇日戦病死(推定) 二一オ九月
 県立熱田中学校 (愛知) 父金八 母光子
 第二〇分隊の伍長補 小銃係



 吉田邦雄大尉は、サマール島沖会戦以来この地にあって奮戦していた熊野の分隊長であった。その熊野が二度にわたり、敵機の爆撃を受けて沈没してしまったので、マニラの陸上で残務整理に従事中であった。一二月一五日に至り横須賀鏡守府附に発令され、内地に帰ることになった。この度の航海士であった七十二期生は戦願詳報を海軍省に提出するため一足先に航空便で帰還したが、吉田大尉は生存乗月を率いて内地に帰るためこの地で待機中であったところがこの戦局下、なかなか便船が得られないまま敵の釆攻を迎えてしまった。
 
 マニラの市街戦がこの大戦中で一番悲惨な闘いであったと言われている。マニラ市街戦が終ったのち戦闘前に市街の外にあった部隊(吉田大尉もおそらくこの部隊にあったと想像される)や市街戦で生き残り脱出した人員は、マニラの東方において自活を求めたが、敵に追われ、病にたおれ、食糧不足に悩まされつつその大部分は山中に消えていった。
 
 終戦の翌年五月帰還した生還者島村健吉氏(六十八期・海没艦岸波砲術長・マ海防司令部の本部予備員で後の北部隊の島村部隊長)と、吉田大尉を一時期診察したことのある軍医であった岡田博氏(三一特根一〇三病院勤務)の知らせで、愛息の最期を知った御両親は今でもその書類を大切に保存されている。以下はその手紙とその他の資料から推定する彼の最期である。
 
 吉田大尉の「マ」海防隊における戦闘配置は、編成外(山嶽隊内)部隊であり、後述の北部陳指揮官となった九〇一空の中込由三中佐や七十二期の鏡大尉などが編入されていた。大尉が横鎮附であり、三一特根附に発令になっていなかったので、第一線的戦闘配置を与えられなかったのであろうし、マラリヤがこの時既に発病しており、その上戦傷を負っていたためでもあろう。
 
この部隊は、戦闘が始まる以前の二月三日又は四日頃、マニラを去って東方の山地モンタルパン、アンチポ地区に入って自活の準傭を始めていた。指揮官は運輸部長であった三宅正彦大佐であり、その多くは軍属や非戦闘員、病人であったと記録され、その後非力なために一番苦労したうえほとんど全滅してしまった。吉田大尉も二月一〇日モンタルパンに移った百三病院で治療を受けつつあったのであろう。
 
 マニラでの戦闘に敗退した結果、二月二七日古瀬大佐(後少将)の指揮下にマニラ東方防衛部隊が編成され、直率の南部隊と三宅大佐の西部隊に分れて漸次転進、東海岸インファンタ附近に集結することになった。その後、中込中佐の北部隊が分れた。前出の島村大尉はこの部隊に配属された。マニラを脱出した生き残りの将兵がボソボソ附近にたどりつき始めたのは、三月七日過ぎからであり、三宅部隊の国生隊がこれらの者を収容した。古瀬司令直率の南部隊はインフアンタに先行している。

 ようやく自活の地を得たかにみえた西部隊は陸軍部隊の強い要求によりモンタルパン、アンチポ地区を去って東方に移動することになったが、指揮官三宅正彦大佐は五千余名の人員、主として非戦闘員を養い得る地域の選定に苦慮した。
 
 そこで部隊を二分し、一隊をサンタイネスからアゴス河沿いに下流のインファンタに移動させ、一隊を山越えでルソン金山、ウミライ川流域に出てインファンタ、ウミライ間に自活の地を求めようとした。
 
 山越えで派遣したウミライ方面の偵察隊が同方面は自活不適と報告したので、予定を変更して大部分をアゴス沿いにインファンタに移動させることにした。吉田大尉は、三宅部隊本部に身を寄せており、三月二八日島村大尉が遭った時には元気で割合肥えて気持も快活であったという。その場所はサンタイネスかレイハンの間であったろうかと推定する。
 
 三月一五日中込中佐のもとに北部隊が新編され、二五日サンタイネスを出発しインファンタに先行していった、先着の南部隊の自活地区に入ることを禁止され、インファンタの北方海岸地区に分散し自活を始めた。この部隊は後に統率が乱れ、分離して北上する組も出たがこれらは全滅し、残留した島村部隊は終戦まで生き延びた。指揮官の中込中佐は七月上旬海上からの砲撃で戦死した。吉田大尉などの三宅部隊は非常な苦労の末五月上旬インファンタに到着したが、ちょうど米軍の進攻を迎えて作戦準備に忙殺されていた南部隊に歓迎されず、北方で待期していた。
 
 古瀬少将の厳命でバレル、カガヤン渓谷に転進自活を強いられた三宅部隊長は思い余り、五月一五日部隊を解散し、各自の自由行動に任せた。その後散り散りとなっ
たこの部隊はほとんど全滅してしまった。
 
 吉田大尉は、五月五日ごろマラリヤが再発し、インファンタの北方二粁附近にあったが、一五日の部隊解散式には出席できないほど重態であった。彼を−診察したことのあった岡田軍医は見るに見かねたのであろう、〈熊野の旧部下太田兵曹他一名に必要な薬剤を持たせて出発させた〉のであるが、それ以後の青田大尉一行の足どりは消えてしまった。この地点から移動したものとしても重傷の身ではその距離はわずかであったろう。

 海軍省人事課・福地部員から御遺族への通知にある《インファンタ北方一〇粁、七月三〇日(推定)戦痛死》という推定の根拠が何であったかつまびらかでない。島村大尉や岡田軍医の手紙にはー八月終戦後その死去を知ったーとされている。「マニラ方面生還者名簿」にある吉田邦雄大尉の欄は−空一〇年五月一日インファンタ北方二〇粁ニテ戦病死(マラリヤ)、戦闘中入院中となっている。
 
 いずれが正しいのか判断する根拠はないが、島村大尉の手紙には〈六月上旬まではマラリヤにかかっていたが、元気であった事は確かであります。八月中旬吉田大尉の死去の事を岡田軍医より聞きましたが………〉とあることから、五月一日説は誤りと思う。彼の最期の地は、インファンタ北方の一〇粁から二〇粁の間の村落であり、左図で推理するほかない。
 
 この大戦で二百六十余万の陸海軍の将兵がそして軍属が戦没し、一般民間人も多数死亡したのであるが、そのぅち極めて多くの者が右に述べたような混載下の悲惨な最期だったのである。
 
 吉田大尉といい、松山大尉といい、佐藤大尉といい、艦艇や航空機において、砲煙の間一瞬にして壮烈な戦死せ遂げた場合とは異なり、長期間の陸上戟闘にあって、傷病や飢餓とたたかいつつ直面する絶望的戦況のもと自己の使命と部下の身を思い巡らせ、祖国の前途と、父母弟妹の行末を憂い、その心情は正に張り裂けんばかりのものがあったであろう。

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