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アンダマン諸島への輸送作戦

(巡洋艦羽黒) 中島文生

海軍少佐 中島文生

 武蔵 五十鈴 名取 航海学校附 羽黒
 二〇年五月一六日戦死 二三オ七月
県立丁中津中学校(大分)父末義 母フジヱ
第三九分隊の馬術係 酒保養浩館係

  (戦況)
 フィリピン沖海戦に参加し、武運強く生き残った重巡足柄と羽黒はシンガポールに帰って整備に当り、待機していた。この時、足柄に大山雅清、羽黒に中島文生が着任した。シンガポールには、同じく重巡の高雄(石原靖夫)と妙高(中島昭夫)があったが、いずれもフィリピン沖海戦で損傷し、そのままであった。
 
 当時、インド洋の孤島アンダマン、ニコパルの基地に対する兵力、糧食弾薬の補給は制海権を英海軍に握られ至難な状況になっていた。その真中を第五戦隊司官の指揮下に羽黒と駆逐艦神風をもって作戦輸送を強行することになり、五月一四日両艦は一尋礁を出撃したが、ペナン沖に待ち受けていた英駆逐艦群に奇襲され、羽黒は沈没し、作戦は中止された。その状況を駆逐艦神風艦長が次のように回想している。
           
 一五日天候晴、海上は静か、敵B24一機に触接された。一六日、間もなくマラッカ海峡に入ろうとする頃神風当直将校は、羽黒がだんだん速くなり、千米以上も離れたので第一戦速とした。羽黒からは何か電話で言ってきたが、よ〈聞き取れない。五分もすると羽黒が突然面舵に転じ、艦尾信号燈が二四節を示している。そして右前方に向って探照燈を照射し発砲した。
 
 敵弾が神風の左舷後部居住区に命中し、少し浸水すると同時に左舷後部に魚雷三本を認めたので、取舵に回避した。その時、羽黒の前甲板附近に大火柱が上り、見る見るうちに同艦の艦橋から後部マストあたりまで一面火の海となり、闇の中に船体がくっきりと浮び出た。
 
 神風は、三二節で羽黒を追い越して敵駆逐艦にはさまれた形となったが、反航戦のため交戦数分でいつの間にか戦場を離れていた。
 
 午前二時五〇分、戦場を離脱してペナンに向い、神風の犠牲者(戦死二七、負傷二三名)を陸揚げ、直ちに現場に向い一〇時羽黒通信長ほか三〇〇名を救助したが、橋本信太郎司令官、杉浦嘉十艦長以下大部分がペナンの南西四五浬で護国の鬼と化した。
 
 この戦関は、完全に不意を突かれて完敗、前日夕刻の情報で敵が反転し、印度洋に出たものと決めていたのが敗因であった。敵駆逐艦は五隻でであった。
      
 僚艦足柄と共に南西方面にあって、帝国海軍最後の戦隊として作戦し、奇襲されたとはいえ、空別甲板にとう載中のドラム缶に引火、大火災、航行不能となるや、敵艦隊は至近距離に一列縦隊に漂泊、燵々たる照明弾の下、主砲や高角砲はいうに及ばず機銃を以ての撃ち合い、パリパリと機銃弾の命中音、赤黄等曳光弾の華やかさ、度重なる海戦の経験か、来月一同不沈を絶対確信、午前三時三五分大爆発音、唯一人海中に飛び込む者なく全員艦と共に沈んだ。
 
 同艦の分隊長であった中島文生大尉の最期は以上のとおりである。五十鈴乗艦時ルオットで橋口勝少尉の最期を見届け、名取(艦長は期友久保田勇父君・戦死)沈没時は幸運にも救肋されていたのであったが、遂にマレー海峡で最期を遂げた。彼の前任者徳島清雄大尉は、便船で内地に帰還中道難戦死しており、往くも死、留まるも死そして還るもまた死、これが当時の我々の上にのしかかっていた運命であった。