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駆逐艦きり会員 ・ 山口県柳井市阿月相之浦海岸を訪ねて


 管理人)の乗艦「桐」も終戦と同時に偽装をとき、関係書類を海岸で焼却し、呉に帰るときに爆雷で近くの漁場、切り立ったロック(R)とある浅瀬を海図であたり鯛などを獲った。

桐の水雷長だった管理人
  
 私
は、平成7年7月、この地を訪れた。バス便が僅か1日4本、静かな漁村に戻っており、古老森繁豊さん(91歳)と当時のことを回顧した。いわゆる過疎の、 老人と空き家が多い村落で、山間の段々畑は、人手がなく荒れるにませて山林と成り果てていた。この老人の弟さん2人は、海軍で戦死されたという。
 息子さんは漁師に転職し、四国方面海域に遠く出ているという。ここにも戦争の犠牲があった。崎の先端を右にまわったところが室積港である。そこに通ずる道路は 広くないが、きれいな海岸に沿い、すっかり舗装されている。その両側には、帰化槙物セイタカアワダチ草が一面に繁り、黄色いブスイなこの花が印象的であ った。占領時代の落とし子がここに生ざつづけていた。

(『野分を追って1万2千キロ』 の著者・蔦乗り込みの小林滋二さん 
 
 不思議な縁で知り合いになった元「蔦」水測員であった
小林滋二さん もこの地を訪れた。平成11年5月である。 

  『もう50余年ぶり、相之浦の記憶はすっかり遠ざかり何に一つ想い出せぬまま門脇様にお伺いしたところ当時在住していた方々が大阪、名古屋、広島、柳井市 から参集してくれ往時を偲び、私の知らない艦隊が撤収後のお話を聞かされまして感無量でした。確か8月18日であったか相之浦を出港したとき村人総員が 中腹の広場に集まり艦が見えなくなるまで手を振って見送ってくれたそうである。
  村をすっかり荒らしてしまい大変迷惑を掛け申し訳けないなと思っていたところ意外に好意の目で見ていたきホットしました。初夏の頃であったので、山は新緑につつまれ美しさはまばゆいばかり、海の色もあくまで澄み平和そのもので した。
 
 小学校も廃校になり校庭には子供の影もなくて静まり返えっていた。
 当時、7月26日頃でしたか平群島付近で爆撃により沈没した「梨」の乗員が学校に運び込まれ応急手当を行なったことを思い出しました。火傷した兵隊が多く立ったままでの手当てであったことが急に思い出された。戦後の相之浦は道路がすっかり 舗装され昔の畦道のような道路は一つもなくあの半島を車で一周できるようになっていた。当時私どもを世話してくれた方が健在で、往時の事を詳しく話して下れたことは、90歳のお年寄りがとても確りしており、一番うれしかった。3日間の滞在を終え広島に一泊し、翌日帰途につきました』。

桐の通信士であった上村民夫氏
 桐の通信士であった73期の上村民夫氏もこの地を訪問され「桐友会会報」に寄稿されている。海軍最期の地をたれもが今でも懐かしく思い出す。また 、この地の方々も同じ思いであったようである。まさに「兵どもの夢の跡」である。