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回天第一期生6名のうち唯一人残った帖佐裕の『回天特攻


1 回天第一期生
 通称「回天第一期生」とは、創設者の機51期生黒木博司中尉・兵71期生仁科関夫と実験途中から参加した樋口、上別府、71期生の加賀谷武と帖佐裕の4人の計6人であった。
 仁科、加賀谷、帖佐はわが71期の同期の桜である。
 黒木氏と樋口氏は訓練中殉職、仁科と加賀谷、上別府は回天特攻で米基地に夫々突入戦死した。

2 回天関係のことを思い出すと胸が痛くなる

  彼は、戦後京都大学を卒業、長崎の親和銀行に入行し、昭和52年6月親和銀行取締役になり、経理部長、取締役検査第一部長を歴任した。昭和59年時点で.月に2〜3週間主張の日々が続くようになり、今日まで元気に頑張ってきたが、そろそろ体力の衰えを感じ、「引退そして第3の人生を」と考えている。住居も4年くらい前に街中から大岳台町に移り、家内と犬1匹静かに暮らしている。

 
 回天関係のことを思い出すと胸が痛くなり、未だ大津島を訪れていません。何れ死ぬまでには一度訪れなくてな、と思っていますが・・・・。
 仁科の母上にも靖国神社での回天慰霊祭の際、初めて一度お会いしましたが、名乗ってお辞儀をしただけで多くは語れませんでした。
 
 戦死した身近な同期は、最後の任務の回天での仁科と加賀谷で3人で撮った唯一の、そして最も自然体の写真を複製して送る。原画の方が男前だが、記念に手元に残しておく。敵を倒すまで髪を刈らずと誓い合ったが、加賀谷が訓練時岸壁に激突し、やむなく髪を刈った後の写真。2匹既に亡く、1匹残った言わ猿<イワザル>は多く語るコトバを知らず。だゝ一葉の写真を送るのみ……。

 
 
今日、平和な時代を迎え得たのも戦時中の亡くなった人たちの御蔭でありますが人生の運命であり、今日生き残った者は、先に逝った人たちの思い出を胸に更にその分長生きをしなければと思っています。
 


3 伊呂波会の三十周年記念誌に載せた帖佐の書簡

  管理人(佐藤清夫)の書棚に眠っていた旧海軍潜水艦乗りの親睦団体「伊呂波会」(平成12年発刊)を再読した。 この記念誌は、当時読み流していたことであるが、平成7年1月に死去した帖佐裕君の生前の書簡が巻末の番外に手書きのままで載っている。
 
 彼は、上述のとおり戦後広く巷間で歌われてきた戦時軍歌「同期の桜」の作詞者であり、前出の特攻兵器「回天」の第一期生6人のうち只一人の生存者でもあったが、戦後の生活では回天の事は多くを語らなかったし、文書も余り遺さなかった。
  この彼の自筆の書簡は、彼が残した数少ない文書の中で、行間に、「回天第一期生」中ただ一人残った戦後長く生き続けた彼が持ち続けていた生々しい苦悩が凝縮されている資料である。
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ご存知のように、黒木、樋口両氏は訓練途中殉職、残る4人の中に1人は後続者養成のため、出撃から外すことになり、創設者の仁科は黒木サンの思いも込めて優先権が与えられ、残る三人で、発射場かあら発進して、馬島を1周、基地に帰りつくまでの競争の結果、時間的に負けた者が残り、自らの技を磨くと共に後続者の技術指導に当たることになりました。

 
 結果は、私の乗った魚雷が整備不十分のため、火管に火がつかず、冷走してスピードが出ず、負けました。当時の心境として先に出撃したいというのが念願であり、長井(満)基地司令官の部屋に直訴に行きました。私の腕の未熟で負けたのではないから競争のやり直しをお願いしましたが「男の世界にやり直しはない。次の早い機会に出撃させるよう配慮するから今回はこの結果に従え」との事で一応従いました。

 
 その後、後続者養成のため、次々と出撃を外され、その中大和に回天を搭載して大量出撃の計画があるやに聞き、嘆願して内諾を得ましたが、ご承知の通り作戦変更で、大和は沖縄に突っ込むことになり、私の出撃は又々延期されました。 最后の決戦は宮崎の海岸であろうという事から、当時の油津(現在の日南市)に回天を配備することになり、やっと特攻隊長兼油津1号機搭乗員として出撃を許されましたが油津待機のまヽで、終戦を迎えました。要約すれば以上の通りです。
 

4 巨星落つ

 例年、上野精養軒での恒例クラス懇親会では
林富士夫と共に軍歌係生徒として閉会時の軍歌合唱を指導していた。平成6年秋の会合では、夫人同伴、杖を突いて出席し、快活に談笑し、軍歌「如何に強風」を熱唱した(それを録音したカセットテープが筆者の手元にある。録音時間約4分間である)。
  
 
この時の参加が彼が我々クラスメートとの最後の別れになるとは誰も予想しなかった。その1ヶ月後の翌7年正月早々急逝した。
  
 私は彼とは兵学校、潜水艦と駆逐艦での戦陣、相ふれ合うこと無かったが、海自衛隊佐世保勤務(2年間)の時、当時親和銀行本店の部長であった彼と在佐世保、東京から来訪の同期生達とよくミニクラス会を、彼のおごりで、開いた。当時の佐世保地方隊での期友は、管理部長・富松(平成19年初冬死去)、大村航空隊司令・津曲(故人)、防備隊司令・石原靖夫、経理部長・宮田(経理学校・故人)、そして警備隊司令の私であった。
 上記のとおり、彼は平成7年1月6日佐世保で死去し、ミチ夫人も同 12年4月に彼の後を追った。夫人は終戦時配備された油津での宿舎となった旅館の娘さんで、二人の間には子供がなかった。

 帖佐裕流の『回天特」
 平成12年4月18日の長崎新聞、西日本新聞によると、夫人の遺言で全財産2億4千万円を佐世保市に寄贈されたとある。
 その善意が市当局で次のように処理された。

 @市の
「帖佐奨学基金」が平成12年4月、故帖佐裕氏の妻ミチ氏からの遺贈による2億円をもって設立された。
 A「佐世保市教育文化振興基金」の積立て額合計一億八千万円の中に彼からの5千万円が含まれている。
 
 このように佐世保市の人々には、目に見えないが、彼ら夫妻の志が脈々として受け継がれていることを知った。回天第一期生の71期3人のうち一人残った彼が先に死んだ仁科、加賀谷に対する彼の『回天特攻隊』の決意の査証であったろうか。なお、彼の葬儀には当時の佐世保市長であった佐世保中学校での同級生棧(かけはし)氏は弔辞を読まれたとある。

追 記

1 戦後、東映が作製・上演した「人間魚雷 あゝ回天特別攻撃隊」がある
 
 この映画の主人公は、回天の創設者で訓練中殉職した機52期黒木大尉(鶴田浩二演ずる大里大尉)の遺骨を抱いて西太平洋ウルシー環礁の敵艦大群に突入し敵艦を射止めた
71期の仁科関夫(目黒弘樹演ずる三島少尉→中尉)である。
 

2大津島基地隊の士官室に迷い込んで住み着いていた子犬 
 
 大津島基地隊の士官室に子犬迷い込んで住み着いていた
。 赤毛の、おとなしい幼犬であったが、搭乗員たちは喜んで「回天」と名付けて可愛がり、だんだん大きくなった。 猛烈指揮官といわれていた板倉少佐、先任搭乗員帖佐裕大尉、三谷与志夫大尉もそうであった。
 
 この三谷大尉は、71期としては最後の回天隊要員、出撃する事はなかた。彼は駆逐艦桐水雷長としてエンガノ沖海戦に参加後に、台湾の馬公要港に入港、その職を管理人と交代、志願した経緯がある。写真の髭はこの時期以後に伸ばしたものである。上記の 「映画人間魚雷 あゝ回天特別攻撃隊」にこの子犬のことは出ている。 

3 読者からの手紙(平成18年)

 帖佐君は上記手記に「仁科のお墓にお参り」したかどうかは定かでないが」とある。このインターネット「同期の桜海兵71期」を見た見ず知らずのご婦人方から仁科のことでメールを頂いた。

 長野県在住の木内(メール発信は奥さん)と申します。私の住まいに程近い佐久市の貞祥寺に、佐藤様と同期で、回天で亡くなられた仁科関夫少佐の慰霊碑がありまして度々訪れております。こちらのホームページや書物により、当時の青年士官の『精神』や『生き様』などを考えさせられております。貴重な体験を我々戦争を知らない世代の者にお伝えください。 
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