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東洋紡社長を務めた滝沢三郎君(故人)の夢の跡

東洋紡社長を務めた滝沢三郎は平成1669日死去した。彼は旧姓立岩といい、我々71期の同期生である。立岩三郎との交わりは江田島での3年間、戦陣の29ヶ月であり、戦後の滝沢三郎とは殆んどの同期生は交遊が無かった。彼は終戦直後から今日まで続いている戦没者の慰霊祭とクラス懇親会に一度も参加してない。しかし、戦後の彼の活躍はたいしたものであったらしい。
 その彼が1982816日の日経新聞の「交遊抄」に次のような一文を寄せている。
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 「ロ50潜」の青春(滝沢三郎)  

 「潜友会」というとまるでアクアラングの同好会のメンバーのように思われるが、これは私の青春のすべてをかけて戦ったロ号潜水艦戦友たちの会である。
 私は昭和17年に海軍兵学校を卒業し、練習艦隊を経て少尉候補生で連合艦隊所属のイ号第175潜水艦に配乗した。そのままアリユーシャン作戦に従事し、キスカ島撤退作戦の終了後直ちに南太平洋作戦に転戦したが、途中で潜水艦学校学生を命じられ、トラック島で生死を共にした戦友と別れて内地に帰った。

 それから数ヵ月後の昭和19年初め、開戦以来太平洋全域に転戦し、ワスプ型空母を撃沈して武勲を立てたイ175潜は南方海域で消息を絶った。従ってこの艦に乗っていた約80人の戦友のうち竹内大尉(元伊藤商事勤務)と名和大尉(日本ユニバック専務)と私のほか、数人しかいない。
 その後、私は昭和19年夏、ロ50潜艤装員(艦長木村正雄少佐、後沖縄で戦死)を命じられて、新しい乗員60人の教育訓練に臨むことになり、其の年の暮れ近く戦場に望むことになった。その間、私は先任将校、航海長を務めることになる。
 当時太平洋戦争も末期に至り敗色ひときわ濃く、敵の対潜兵器の発達によって次々と僚艦は沈み、多くのクラスメートは戦死していった。その中にあってこのロ50潜は極めて運の強い艦で、各地で転戦したのち206月、激戦たけなわの沖縄作戦に臨み爆雷数百発をくらい、23時間に及ぶ死闘を続けながら沖縄海域から脱出して舞鶴に帰還した。そしてさらにもう一度短時日沖縄方面に出たが、乗員全員無事のまま終戦を迎えることになった。この時の艦長は後に海上自衛隊の海将になった今井賢治大尉(67)である。
 ちなみにロ50潜はロ35型という同型艦20隻のうち、たった1隻だけ戦争をして生き残ったわけである。舞鶴鎮守府所属であったため、乗員のほとんどが新潟、富山、福井、京都出身者で、戦後毎年のように北陸方面で潜友会を開いていたが、私は5年ほど前から参加するようになった。先日も京都で会合した。皆50歳から60歳。初めはお互いに名前と顔がはっきりしないが、語り合ううちに映画のフィルムをとめた時のように若い日の顔が浮かび、つきせぬ思い出に浸たって夜のふけるのも知らず語りあった。
 厳しい青春ではあったが、これもまた今日の平和な日本にたどりつくために通らねばならぬ道であったとも考えると感慨無量である(東洋紡専務)