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父島、それは元米国大統領ブッシュ・パパと期友遠山司三郎君
共通の“兵どもの夢の跡”


平成21111日のロイタ共同は、現米大統領の父親、ブッシュ元大統領の名前にちなんだ米海軍最新の原子力空母ジョージ・H・W・ブッシュ号が1月10日に就役したことを報じた。

ニミッツ型原子力空母
10隻の最終艦で、艦上式典には元大統領と現大統領の父子のほか、両夫人や政権高官が勢ぞろい。現大統領の任期満了を間近に控え、ブッシュ家にとって最高の晴れ舞台になった。あいさつに立った現大統領は「望むものほぼすべてを手に入れた男に何を贈ろうかと考えた末に空母を思い付いた」と、父親の業績をたたえた。海軍パイロット出身で、太平洋戦争で日本軍に撃墜された経歴を持つ元大統領は「自由と平和は兵士の犠牲の上に築かれる」と声を震わせた、とあった。

管理者(佐藤)は、予て、期友遠山司三郎(しさお)君からブッシュ・パパが父島攻撃の空母パイロットとして参戦、撃墜された現場におったということを聞いていたので、このホームペイジ『兵どもの夢の跡』にその詳細を紹介したいと依頼したところ、次のような回想記を寄せてくれた。



ジョージ・H・Wブッシュ元アメリカ合衆国大統領来日に想う


平成14617(2002)、日本中が連日の“ワールドカップ”に湧いている中を、ひっそりと、第41代米国大統領ジョウジ・H・Wブッシュが自家用航空機で厚木航空基地に到着した。今回の来日目的は、第二次世界大戦中の「記憶をたどる旅」で、自らパイロットとして戦った父島を、硫黄島を訪問するということである。

 
元大統領は昭和
1992(1944)、父島空襲のためマーク・ミッチェル海軍中将指揮下の第58機動部隊の空母サン・ジャシントからアベンジャー雷爆兼用機で出撃し父島の航空施設目がけて急降下中に、機体に日本の対空高射砲弾を受けた。500ポンド爆弾を投下後に、反転して海上に逃れたが操縦不能に陥り同僚2名とともに緊急脱出し、救命ボートで漂流し、潜水艦フィバックに救助され九死に一生を得たと云う。なお、同僚2名は脱出時に消息を絶ったと云われている。


さて、昭和
19年夏のこの時期においては、6月下旬の“マリアナ沖海戦”で日本海軍は空母3隻を失い、7月、8月にはサイパン島、テニアン島、グアム島が夫々玉砕して、硫黄島、父島周辺は文字通り国防の第1戦となり、米軍による攻撃も熾烈を極めつゝあった。

 
私は
6月末日、(第40期)飛行学生を卒業して直ちに父島航空隊・硫黄島派遣隊に着任して、直ちに攻撃機の偵察員として、日夜、索敵哨戒任務に従事していた。処が、7月中旬の某日、未明の索敵哨戒のため燃料、爆弾を満載して、正に離陸しようとしていた97式艦上攻撃機3機に対してマリアナ地区から飛来のカタリナ飛行艇が銃爆撃を加え、3機共に炎上した。やむなく残余1機の被弾を修理して父島の本隊に移動し、派遣隊は解散となった。

 
父島本隊では零式水上偵察機の偵察員として引き続き索敵哨戒任務についたが部隊被爆の機会も激しさを増大した。
84日、父島二見湾から内地向け出港の船団を零式水偵機2機にて護衛中に“父島空襲警報発令”を受信した。偶々、同行の僚機から“いかがすべきか”の問い合わせを受け、任務継続か,中断か躊躇した結果、帰島を決意して急遽、父島に帰着したが、愛機を滑り台に収容する前に、既に上空には機動部隊からのグラマン戦闘機6機が来襲し繰り返し銃撃を加えた。さらに夜になって大型爆撃機B−24×3機の編隊爆撃を受け、翌日85日には早朝から夕刻までグラマンTBF、カーチスSB2C、ボートシコルスキーSO3C、グラマンF6F等、延べ300余機による銃爆撃、急降下爆撃を受けた。さらに、巡洋艦4隻、駆逐艦8隻による艦砲射撃も浴びた。


湾口近くの三日月山山頂の洞窟内に設けた指揮所からも靄の中に敵影を見ることは出来るものの対抗手段を持たない口惜しさは何とも言いようのないものがあった。艦砲の目標は二見湾奥の施設に向けられており湾口内側のわが陣地の稜線直上を猛烈な唸りをあげて砲弾が通過するときは、木々の枝葉は素っ飛び、直径
20センチ程の大木も、根こそぎ、引っくり返される程の凄さであった。

 また、私は当時、航空隊の飛行士兼職であり部隊の戦闘詳報作成の責任を負って空襲下でも特設の観測所に籠っていたが、250キロ爆弾による直撃飛散時には同所を離れ、幸いにも一命を取り止め得たが、前日護衛した友軍船団は全滅した。


 
812日、B−24×16機が昼間、堂々と編隊水平爆撃に来島、凄まじい爆撃投下量だが、マリアナ基地からの第1撃とのことで、以後、毎日のように継続して来襲した。31日、連日の空襲に備えて防空壕入り口に大きなセメント製爆風除けを完成した直後の空襲において、防空壕入り口と爆風除けとの間に偶然にも大型爆弾が投下され、防空壕内に避難していた将兵多数が戦傷死したが、わが分隊からも11名の戦死者を出し暗然たるものがあった。

 
91日、未明から空襲警報発令、前日に引き続く艦載機による爆撃がある。特に急降下爆撃において、わが対空砲火をくぐって爆弾が投下、避退の行動は実に勇敢であり、他方わが対空砲火部隊も懸命な奮闘であり、余り多くはなかったが、艦載機の一部を撃破し、其れが長く火焔を曳き乍ら湾口低く突っ込んだ姿も見られ、撃破の都度、撃破した地上部隊から歓声が湧き起ったのを覚えている。

 顧みるに8月上旬及び今回と2度に及ぶ艦載機の行動は、口惜しい程見事で、それ丈けに、湾内に停泊の艦船の被害も大きかったと言い得よう。

 
戦後、明らかにされたジョージ・H・Wブッシュ元大統領も、前述したとおり、その一員として、この戦に直接参加し、結果的には生命をとり止め得たが、それ丈に、思い入れは、深く心に刻み込まれ、今回の『記憶をたどる旅』の一環として、父島及び硫黄島も訪けることになったのであろう。

 思えば、若し万一、この地で命を落としてしまえば、勿論、ブッシュ大統領は存在しなかった。

 戦争とは、むごいもので、優秀な人材が多数、葬られて行く。そういう世の中は人類にとっても再現してはならないことを改めて痛感する次第である。

 編者註:

平成14 614() 小笠原村民だより
 ブッシュ元米国大統領が、来る6月18日から19日にかけて、父島に来島されることになりました。滞在中は、戦時中の想い出の地を訪問される予定です。小笠原村としては、今回の来島にあたり日米の友好関係の象徴として、盛大に歓迎したいと考えております。つきましては、村民の皆様のご協力をお願いいたします。

・大統領歓迎セレモニー 6月18日(火)午前9時15分より 場所 自衛隊基地内 
・送別セレモニー 6月19日(水)午前9時55分より 場所 自衛隊基地内




以下は参考まで


1 米大統領たちの太平洋戦争
 アメリカの国立公文書館入口ホールに、 歴代大統領が、 どのように太平洋戦争に参加して国家に尽くしたか示すパネルが掲示され、展示されている。
  戦後に大統領となったアイゼンハワーからレーガン大統領まで、総ての大統領が進んで軍務に付き、 太平洋戦争に何らかの形で軍人として参加していたことであった。
  @アイゼンハワー :陸軍中将・ヨーロッパ派遣軍司令官として、
  Aケネディ    :海軍中尉・魚雷艇艇長として、
 Bジョンソン   :海軍少佐・海軍省の幕僚として、
  Cニクソン    :海軍少佐・航空部隊の補給士官として、
 Dフォード    :海軍少佐・航空士として、
  Eレーガン    :陸軍大尉・補給士官、としてついで陸軍航空隊教育宣伝部の士気高揚映画俳優として、
 Fブッシュ    :海軍中尉・雷撃機グラマンのパイロットとして、
それぞれが太平洋戦争に参加していた。


太平洋を泳がされた大統領)


 @太平洋戦争中の大統領の中で、 一番劇的な戦いをしたと日本で考えられているのは、日本の駆逐艦にソロモン海で撃沈された魚雷艇艇長のケネディ海軍中尉であるが、戦争中に最も劇的な活躍し生死の間を往復し、 太平洋を2回も泳いだのは第41代大統領のジョージ・ブッシュ海軍中尉であった。
 
ブッシュ(当時17才)は日本軍の真珠湾攻撃のニュースを聞くと、家族に無断で海軍航空隊への入隊を決意し登録してしまった。 ブッシュ家は裕福な名門であり、父や家族は大学を卒業してから入隊することを勧めた。 しかし、18才の誕生日を迎えた日に海軍に入隊し、19才の誕生日直前にパイロットの資格を得て海軍少尉に任命された。


A次いで、1943年には上級飛行講習を終えて第51雷撃隊に補職され、 エンタープライズ型空母サン・ジャシントに配属された。ブッシュは、アベンジャー雷爆撃機に搭乗し、マリアナ沖海戦、ペリリュー島、 父島、 フィリピン空襲など中部太平洋の諸作戦に58回出撃した。この間、 マリアナ沖海戦と父島空襲時に墜落し2回も太平洋を泳いだ。第1回は1944年6月19日のマリアナ沖海戦中で、このときは上空直衛機として警戒に当たっていたが、 日本機の空襲が始まる直前にエンジンが故障し不時着、駆逐艦のブロンソンに救助された。

 その後、 中尉に進級しパラオやペリリュウー島の爆撃に参加したが、9月2日、父島の日本海軍の通信所の爆撃を命じられ、 爆撃行動に入ったところを振分山に配備されていた海軍特別根拠地隊第4分隊の25ミリ連装機銃により撃墜された。被弾し火災が起きると、 ブッシュ中尉は航法士兼務射撃手のホワイト中尉と通信員のデラニー2等下士官に脱出を命じた。しかし、 1人はパラシュートが開かず、 他の1人は行方不明となってしまった。
 一方、 ブッシュ中尉は2人の脱出後にパラシュート降下し、 尾翼で頭を打撲したが、パラシュートが開き無事着水し、救助のために父島東方に配備されていた潜水艦フィバック号に救助された。救助されたブッシュ中尉は1ケ月を潜水艦で過ごし母艦に帰艦した。
 
そして、
再び操縦桿を握り、 11月にはマニラ湾の爆撃に参加した後に、母艦に修理の必要が生じたため帰国した。しかし、日本が降伏したため出撃は取りやめられた。 

 復員するとブッシュ中尉はフィアンセであったバーバラ嬢と結婚し、エール大学に入学した。被弾しても爆撃を続行した「英雄的行為」により、ルーズヴエルト大統領から「航空殊勲賞」を、 海軍からは“黄金の翼”の称号と「航空殊勲章」を受領した。 なお、 ブッシュ中尉が大統領に就任すると潜水艦フィバックの乗員30数名をホワイトハウスに招待し、「今日あるのは諸君のお陰である」との謝辞を述べたという。

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