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期友常広栄一君の夢の跡

自衛隊在職中の昭和55(1980)夏、所用があり三菱下関造船所を訪問した。所長らとの雑談で、終戦時の話に華を咲かせた。当時彼の乗艦:波号209潜水艦(ハ209潜)は、下関海峡で米軍敷設の機雷に感応、航行不能になった。そのとき曳航したタグ要員が1名残っている由で、案内してもらって、巌流島に上陸、巌流の碑まで夏草の生い茂る中を歩いた。「夏草やつわものどもが夢のあと」の思い出にひたることであったと、『水交』平成2112月合併号にある。

『新米艦長 失敗談』 常広栄一(71期)

 弱冠21歳の未熟で経験の浅い潜水艦艦長の誕生。終戦直前の、斬新な小型高速潜水艦の量産態勢及び同艦の艤装前の乗員チーム編成、更に終戦間近の潜水艦要員の人材払底の状況等に始まる私の乗艦波号209潜水艦(ハ209潜)の竣工物語と新米艦長の失敗談である。

1.波号201型潜の生い立ち 詳しい経緯は知らないが、ドイツがブロック方式による潜水艦建造で、効率を上げているのを参考にして、量産態勢を組んで建造された潜水艦。昭和19年に計画された近海作戦用で、特徴は水中高速、潜舵を艦体中部に付け、横舵は大きくし、ために水中換縦性は極めて優秀でした。

船体は3つのブロックで作られて溶接で繋ぐ。私のハ209潜は佐世保海軍工廠の建造で、終戦までに同工廠で完成したのは、ハ201潜〜ハ210潜までの9隻で、私の艦は8番目でした。なお終戦時には他の3造船所で合計29隻が建造中であった。 

2.潜小講習員から艦就役まで昭和2045目付で、潜水学校(大竹)高等科学生終了、即日「潜小講習員」発令、潜小乗員1チーム編成の指揮官である。

定員26名も漸次潜水学校に集まってくる。それぞれの配置に応じて学校教官から講習を受ける。この期間は僅か1カ月余であった。ところが、内海での訓練が不可能になり、学校・練習潜水艦ともども、石川県能登半島中部にある穴水に移転することとなり、5月中旬に早々と、他の潜小講習員チームと一緒に、穴水に先行した。
 615日付で、ハ209潜の艤装員発令、佐世保に向けて集団移転です。工廠の艤装員事務所に落ちつきました。船台には円筒形のブロックがゴロゴロ、それが手際よく溶接で一体化していく、まさに昼夜を問わない戦場であった。
 先輩の艦は次々に完成し、事務所の顔ぶれもどんどん入れ代わっていく。ハ201208潜までの艦長は全部1期先輩の70期、私以下はすべて同期の71期という顔ぶれ。艤装中に、B29による夜間の市内空襲があったが、海軍関係施設は殆ど被害がなかった。
 艤装も順調に進み、数日程度の簡単な公試も終わり、84日、無事に就役、軍艦旗を掲げ、晴れてハ209潜艦長になり、身の引き締まる思い。即日、第11潜水戦隊に編入、1週間程度の慣熟訓練の後、“なるべく速やかに呉回航”の命令を受領する。
 11潜戦で約1ヶ月の訓練を経て、作戦行動に入ることになるのであろう。いよいよ正念場、最大限の努力をして、使える戦闘単位にならねばと、決意を新たにするところであった。
 戦勢はとみに厳しい。乗員26名の生命を預かる責任も痛感させられた。はっきり申せば、こと本命である敵艦船襲撃には全く自信がない。潜水艦乗りとしての経験も浅い。
 165潜での僅か6カ月、最初の行動は豪州西方海域の偵察兼通商破壊の1カ月で戦果なし。2度目はビアク島の根拠地隊司令官等の救出と物資輸送作戦、結果は暗号解読による敵艦の待ち伏せに捕まり、数時間の複数艦による撤烈な攻撃を受け、辛うじて脱出、任務放棄、作戦失敗、船体被害といった情けない経験であった。

3.第1回の大失敗、急速潜航訓練中アップ60度で跳出(詳細は省略)。

4.第2回の大失敗、関門海峡で蝕雷
 呉に回航するために、811日佐世保出港、平戸瀬戸を通り、同夜は伊万里湾仮泊、翌朝出港、六連島付近で掃海終了を待って、門司に入港した。
 明けて13日朝、掃海終了の報告で出港、九州北端の部崎を真艦尾にして掃海水道を進む。危険海域を出たので、電動機推進デイーゼルに切り換える。私は艦内に入り、司令部に状況報告すべく、電信員に指示を伝えているその時、ドガーンと大音響と大振動、触雷。
 艦橋へのラツタルが外れていたが這い上がる。天蓋に上げていた見張員2名は吹き飛んで、艦尾後方の海面で手を上げている。艦尾両舷から泥と海水が10m以上も舞い上がつたとの報告。艦内から舵取機火災、消火中の報告。艦が沈下する、そのうち20センチ程度沈下したところでおさまる。メンタンクの下部損傷で浸水したのが止まったのであろう。内殻は水深100b以上の耐圧があり、沈没の心配はないと確信していた。
 火災は鎮火、電池異常なしであったが動力は使えない。近寄ってきた掃海艇に、先ず漂流中の人員の救助を頼み、艦を横抱きにして、下関彦島の三菱造船所までの曳航を頼む。
 艦内に入ってみると、特に後部は惨憺たる情景、艦体に取り付けた機器類は、殆どが取り付部で切損、天井のものはぶら下がつている。運転下士官の上にある重力燃料タンクも落下、幸い彼は位置を外していた。人員の被害は、吹き飛んだ2人が張出した横舵で脛を打った以外、異常なしでした。不幸中の幸いであった。
 触雷の原因を考えた。一つはジャイロの誤差がまだあつた。部崎の1方位のみでの掃海水道航過中、掃海艇と若干離れていったことは事実であった。二つ目は、ディーゼルヘの転換が早すぎたか、転換直後に音響機雷に感応したと思われる。それにしてもやられた、“参ったの感”。これからの修理は大変、機器類の総点検、総修理になるだろう。まさに艦長落第、等々、曳航の途中に次々といろいろなことが頭に去来し、不運を嘆き、まさに意気消沈の態であった。
 翌14日、入渠準備、95式実装魚雷2本を団平船に下ろし、海峡のブイに係留。15日朝入渠、正午の玉音放送を焼けつく鉄甲板上で聞く。まさかと思いながらも、“耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び”の付近でやはり降伏、敗戦かとの認識であった。これからの日本は、多くの戦友の死、同期は半数以上が戦死した、俺自身は助かつたがこの先は一体、等々、全く五里霧中の態。反面一昨日の触雷は無罪放免になるかとも思い、些か投げやりの感じになってしまった。

5.その後の始末
 3日程して、造船所から出ていってほしいとの要請、軍艦旗がいると困るとの言い分。拒否することもできず、向かいの巌流島の海峡よりの灯台の横に摘座させてもらうことになった。
 米軍の接収までの保管要員として、士官総員(艦長、航海長、機関長、掌水雷長)と下士官兵5名を残し、他は復員させた。翌日タグに曳かれて欄座、9名で名残りを惜しんでハッチを鎖扼し、門司武官府に引揚げた。
 数日して海防艦に便乗、呉の潜水艦基地隊に落ちつく。先発の潜小7隻は目の前のブイに係留し健在、「菊水に非理法権天」の旗を立て、降伏拒否、意気軒昂の態、当方ますます肩身の狭い思いに駆られる日々であった。
 9月下旬、米軍の接収に備え現地に赴く。1117日、漸く米海軍の接収員6名乗艦、トランク様のTNT爆薬3個を艦内に持ち込み自沈させた。
 数カ月後に所用で関門海峡を連絡船で往復した。巌流島に乗り上げ、真っ赤に錆びたわが艦の変わり果てた姿を眺め、涙を抑えきれない切ない気持でした。そのうちスクラップに解体されたと聞く。

(おわりに)
 終戦後40年程して、ハ209潜のメンバーも高齢化して暇もできたのでしょう、集まろうということになり、第1回の会合を持った。集まる者15名、そこで『ハ209潜会』が結成され、以後隔年会合することになり、それから15年近く8回の会合が主として西日本で持たれた。集まるのは概ね10名程度。
 ところが次第に減少していき、8年前に老齢化とともに解散になった。現在消息を持っているのは10名足らず。士官は私だけになってしまった。不思議なものである。多くは僅か5カ月の付き合い、保管に残った着でも8カ月。新米艦長の大失敗、その時の苦労を懐かしんでのことでしょうか。会えば“艦長″である。
 戦後はや61年も過ぎ、太平洋戦争も遠くなったと、老いを感じる今日この頃です。終わり

備考
 筆者は我がクラスの恩賜の短剣拝受者10(戦死6名、終戦時の生存者4名)の内只一人の健在者である。元海将、横須賀地方総監を最後に退職。戦後長く三笠記念艦の要職を歴任し、現在に至る。