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Y 委員会の記録

 日本海軍は戦況が悪化しても徹底抗戦を続け、海軍の戦死者は47万人にのぼり、1000隻の軍艦は悉く失われた。この戦争で民間人を含む日本人310万人が犠牲となった。戦争の終結と共に日本海軍は解隊した。
  
 大東亜戦争終戦後間もない海軍省内で既に完全に解隊された軍備、とくに海上兵力の再建が今後どのあるべきかの問題が話題になった。旧軍人の多くは海軍再建までに百年かかると考えている。しかし、それでは海軍の経験者がいなくなってしまう。吉田英三元大佐たちは危機感を抱いていた。情勢の急変に常に即応しうるよう極く内々にこの研究を続けることは黙認され、海軍再建などとは口に出来な占領下での研究が始まった。
 
 元大佐吉田英三は戦争の作戦を立案する軍令部、組織つくりを行う海軍省、海軍の中枢を歩んできた。終戦の4日後連合軍との会議に元海軍少将山本善雄たちと共に日本側の代表として降伏に関する協議に臨んだ。無条件降伏を受け入れた日本で「日本の軍備は自衛防御のためのものであって、独立国として、日本自ら行なうべきものである。国家の軍隊たるものは、国土と民族とを防衛するためには私的犠牲を顧みない。国土と民族を守るのは軍隊である。国家として死をも厭わない軍人が必要である」と考えた。終戦のとき吉田元大佐43歳である。
 
 昭和22年に日本国憲法が施行され、戦争を2度と起こさないと宣言している。戦前の軍国主義を断ち切った新たな精神を掲げ、前文では戦争の反省を踏まえ、日本国民は恒久の平和を念願すると明記している。これが戦後日本の新たな出発点となった。

 新憲法施行の翌年、元山本善雄海軍少将を責任者として吉田元大佐を中心とした再軍備の研究グループが結成され、海の再建に向けて極秘のうちに研究を始めた。昭和23年1月、第2復員局の吉田英三元海軍大佐(兵50期)、永石正孝元海軍大佐と寺井義守元海軍中佐(兵54期)の3名は日常業務を遂行する傍、鋭意軍備再建計画案の研究を進めた。

 外地から軍人達の復員がまだ続き、終戦直後外地に残された軍の関係者は353万人、復員業務は部隊の動向を把握している元軍人が担当していた。霞ヶ関にあった海軍省は廃止され、旧海軍軍人の復員をおこなう第2復員局になり、この人たちはそこに移る。職員の多くは旧海軍軍人で、吉田元大佐達は業務が終わると同僚にもきづかれない様に再軍備研究をおこなっていた。再軍備研究を始めた旧海軍の山本善雄元少将、長沢元大佐、吉田元大佐、永石元大佐達は公職から追放される対象ですあったが、復員業務を担当していたため例外として追放を猶予されていた。

 終戦から5年、再軍備研究グループを取り巻く環境が朝鮮戦争の勃発で大きく変わった。
連合国軍総司令部GHQは、日本の占領政策を指揮しており、マッカーサー最高司令官は日本に進駐していたアメリカ軍を朝鮮戦争に投入、代わりに陸上自衛隊の前身警察予備隊を創設した。軍の復活という批判を避けるため旧日本の幹部は入隊を許されなく、旧日本軍と断ち切って発足した。
 
 旧軍との繋がりが絶たれた陸軍部隊の創設により、吉田元大佐の元に元中将、少将、旧海軍の幹部が次々と集まってくる。新しい海軍には旧海軍の伝統と技術が必要であり、吉田元大佐たちは急遽戦後5年間の研究を取りまとめ、日本政府要人に働きかけることを決めた。

 昭和25年10月、海軍再建工作本格化する。吉田元大佐たちが始めてまとめた「再軍備研究に関する研究資料」は、戦争放棄を宣言した戦後社会で軍隊が受け入れられる余地を見いだそうとしていた。新たな軍の目的はソビエトの侵略を想定した専守防御。旧日本軍とは異なる自衛のための軍隊だと位置づけている。

 5年間蓄積したデーターを集大成、各地の部隊で必要な配員や艦艇の数を詳細に積み上げ、艦艇の配置計画として本州の一番北にある大湊の基地への配備が最も多くなっていた。ソビエトを脅威とみなして計画を立てていいる。専守防衛に重点を置いた計画です。更に軍備再建上最も注意すべきことは「軍の政治不関与」を挙げている。政治を動かした戦前の軍との違いを強調し、「日本の防衛は陸上兵力のみでは不可能であって、航空及び海上兵力を備えることが絶対に必要である」として、海上兵力即ち海軍の創設が如何に重要であるかを訴え、完成した研究資料を政府要人に配った。

 この再軍備研究グループは、翌26年1月、日本を占領下においていたアメリカに密かに働きかける。旧日本海軍軍人がアメリカの力を使って再軍備計画を実現しようとした。

  「Y委員会決議記録」、「Y委員会議事摘録(全6巻)」の別冊「日本再軍備に関する私案」は吉田元大佐達がアメリカ海軍軍人と共に作りあげた秘密文書である。日本の海軍再建はアメリカにとって有益であることを強調。東西冷戦が激化する中、日本に海軍を作り極東でのアメリカの軍事負担を軽くしようという内容のものである。「日本は速やかに最底限度の自衛兵力の再建を計り米国の負担軽減に益すべきである」。この文書がアメリカの対日政策の責任者に渡っている。
 
 このグループとアメリカを結びつけたのは野村吉三郎元海軍大将、艦隊の司令長官そして外務大臣を歴任した人物で、真珠湾攻撃のときはアメリカ大使を務めていた。政治と軍の中枢にいた野村元大将も戦後公職を追放されておたが、元吉田大佐達の計画をアメリカに伝える役割を担っていた。野村元大将は毎週のように都内のあるホテルに滞在していたアメリカ海軍のアークレイ・バーク少将(当時)に会っていた。彼は朝鮮戦争での作戦を立案する参謀として来日していたのである。
 
 当時、アメリカは日本周辺の海上防衛を分担させる必要に迫られていなかったから日本の海軍再建に余り関心がなかった。アークレイ・パークは来日後、朝鮮戦争の情勢分析のために日本人の助言者が必要になり、彼の前に現れたのが野村吉三郎元大将である。バークは野村元大将に最も気になっている「朝鮮戦争に中国は参戦するでしょうか」を聞いた。
 野村元大将は中国は当然そうするだろう。中国の指導者の行動を分析すると参戦は間違いないとこう断言したと言う。この会話から間もなく、実際に中国は朝鮮戦争に参戦し、野村元大将の分析をバークは次第に重く受け止めるようになった。
 
 バークがアメリカ海軍の幹部に送った文書の中で、バークはソビエトの脅威に備えて将来日本の海上防衛力の強化が必要だと指摘し、更に、元軍人の状況について野村元大将は「日本海軍の元軍人ですが、公職から追放されているため今生活に困窮している。生活状況がこれ以上悪化すると憎しみが生まれ、家族のために何をするようになるか分からない。彼らを放っておくと共産主義に向かっていく恐れがある」と伝えている。元軍人たちを放置しておくのは得策ではないと考えるようになったバークに対して野村元大将達は再軍備の研究案を持ち込み助言を受けるようになる。こうして完成したのが秘密文書「日本再軍備に関する私案」であった。
 
 日本再軍備研究グループの研究案がこの後もバークを通じてアメリカに送られ、旧海軍とアメリカ海軍の再軍備に関するやり取りが日本政府を介さずに行われていた。旧日本海軍グループそしてアメリカ海軍が日本の再軍備を動かしていく。「日本政府、アメリカ政府を相手と考えていなかった。海軍の再建に関してはGHQと私バークそして旧日本の海軍グループの間にすべてが話し合わされていた。日本政府との正式な協議が始まる前に情報は総て把握できていたのだ」と証言している。
 
 昭和26年1月、対日講和促進という重大な使命を帯びたダレス米特使を代表とするアメリカ代表が到着、日本の独立に向け来日したアメリカのダレス特使は対日政策の責任者であった。日本の独立の条件などについて当時の吉田茂首相と対談を重ねる。この時日本再軍備に関する私案が野村元大将からダレスに密かにて渡され、翌日、ダレスが大変興味深く読んだと野村元大将に伝えてくる。
 
 再軍備研究グループの活動が続きアメリカが動く。ダレス来日後20日、吉田元大佐達のもとにGHQから再軍備研究の資料を提出する様口頭で指示があり、GHQの求めに応じて提出したのは「旧日本海軍軍人の状況並びにその再動員に関する研究資料」である。
 
終戦時の海軍軍人の数を階級、技能別に一人一人正確に把握しており、その内、幾人が復員して再び海軍に復帰できるか詳細に記
している。これは再軍備研究グループだからこそ作成できた資料、旧海軍軍人の復員業務を行い、その動向を把握する立場だったからである。さらに資料の中で再動員のためには能力の高い旧海軍軍人の公職追放を解除することが不可欠であると指摘している。戦後、「GHQ」によって追放された幹部は合わせて73.000名であった。



 昭和26年8月、アメリカ合衆国大統領トルーマンは国防長官から「日本に海上防衛の組織を創設することを許可願いたい。それを将来の日本海軍の核としたい」という報告書を受け取った。対日講和会議は9月4日サンフランシスコのオペラハウスに52カ国が参加、東西対立の息詰る緊張のうちに議事は進み、ここに日本は国際社への復帰が許されることになった。

 「日本の再軍備、即陸海空軍を公然と整備することは日本の憲法等各般の障害のためただ許されていない」。憲法がある中で海軍をどうやって再建するのか。軍という名称を使わずにまずは既にある組織を利用する可能性を示し、不本意ながらまったくの臨時措置として海上保安庁を利用するというものであった。そして、その後、吉田元大佐達が想定した通りに事態は進んでいき、新しい組織を作るための秘密委員会が作られた。
 
 昭和26年10月、軍艦が貸与される事になり、その軍艦を運用するため海上保安庁に新しい委員会(Y委員会)が設けられた。
 
第1回Y委員会(昭和26年10月31日)
 海上保安庁の一室で始まります。秘密を保つため窓は厳重に締め切られ、メンバーは、吉田元大佐ら再軍備研究グループを含め旧海軍側からは8名、海上保安庁側からは組織のトップ長官と現場の最高指揮官2名。委員会のメンバーはアメリカ側の意向に沿って決められ、アメリカは助言を与えるとして、顧問団をおく。議事録によれば次の様な内容の議論が行われている。

第2回Y委員会
旧海軍側 軍隊的性格でなければならないと主張、国民に対し軍の再建という不安を与えぬ配慮が必要である。吉田元大佐は旧海軍側の主張を更に明確にして会議をリードし始めます。「海軍を作ろうというのだから組織のトップは軍人であるべきだ」。吉田元大佐達は海上保安庁では軍隊の任務は果たせないと考えている。
海上保安庁側 あくまで警察力の強化だと反論

アメリカ顧問団

新組織の名称を「海上保安予備隊」としていることにアメリカは疑問を呈した。新しい組織の創設は日本の再軍備の一環だと捉えていたからである。

 前の年、朝鮮戦争で事件が起きていた。昭和25年10月、アメリカ軍の上陸作戦を支援するため海上保安庁の掃海隊が朝鮮半島沖の機雷処分に投入されます。日本とアメリカが秘密の内に合意した戦闘地域での作業です。派遣された海域には北緯38度線を遥かに越えた処もある。出動した掃海艇は延べ43隻、作業中の1隻の掃海艇(MS14号)に機雷が触れ沈没。18人が重軽傷を負い一人が死亡。隊員は「これ以上掃海は続けられない。何とかして米軍に協力は止めるべきだ」と。アメリカ側はすぐ掃海作戦を再開するよう厳命したが、日本の掃海艇3隻が乗員の命には代えられないと直ちに帰国。戦後国家のために犠牲になる義務はなかった。この事件を受けて吉田元大佐たちは犠牲を省みない軍人、軍隊が必要だという思いを強くした。

第3回Y委員会(昭和26年11月6日)
 この掃海事件を受けて、吉田元大佐たち旧海軍側は犠牲を省みない軍人、軍隊が必要だという思いを強くし、新しい組織の独立を目指した。一方、海上保安庁側は新しい組織は飽くまで海上保安庁の強化の一環であると主張。新しい組織は保安庁に既に在る組織、在来組織と一体化すべきであると考える。会議の内容は毎回アメリカ顧問団に報告されている。

第5回Y委員会(昭和26年11月10日)

アメリカ顧問団

予備隊という名称をつけた理由は?
昭和27年1月、旧海軍側の目指す組織が出来るのかどうか、旧海軍側にとっては独立した指揮権を持ったことが絶対必要

旧海軍側 警察予備隊の例にならったもので、内外に刺激を与えない、将来は名前を変えます
顧問団「それではよいOK

海上保安庁側

海上保安庁側は旧海軍側のペースで会議が進んでいることを牽制。
現場部隊を指揮するのが警備救難監で、その下に新組織が入る。新組織が警備救難監の下に付くと現場の指揮権は海上保安庁が握ることになり。

第16回Y委員会(昭和27年1月24日)
旧海軍側 新しい組織が警備救難監に指揮されることに異議を唱え、新しい組織を長官の直属にして、いつでも分離独立できる余地を残すことに強くこだわる
海上保安庁側 海上保安庁側は新組織はあくまで警備救難監の下に付くべきだと主張

第19回Y委員会(昭和27年2月15日)
アメリカ顧問団 警備救難監は新しい組織を統括しない。新しい組織は警備救難監の指揮権はないと決定

 
新組織は旧海軍側が主張したとおり独立した指揮権を持つことになる。再建計画を始めて7年、戦後日本に海上防衛力が生まれることになった。
 

 昭和27年4月25日の第29回Y委員会で、アメリカ海軍から軍艦を貸りる手続きの確認が始まり、Y委員会は半年間の議論の末解散します。翌日、再生海上保安庁法が交付された。そして、海上自衛隊の全身たる海上警備隊が発足する。


(備項) Y委員会とは山本善雄元海軍少将の頭文字の「Y」をとったものという。
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